[101]養老孟司の「人生は不要不急」を読んで思うこと

不要不急について――その1

解剖学者、養老孟司さんが5月12日の朝日新聞に「人生は本来 不要不急」と題して寄稿しています。興味津々、読ませていただきました。

  養老先生の「不要不急」考を追いかけながら、私の感じたことを書いてみたいと思います。

  養老さんは大学を卒業し一年のインターンを経て医師免許を取得したが「責任をもって患者さんを診ることなど自分にはとうていできない」と思い、臨床医にならなかったのだそうです。

  その後大学院をへて解剖学教室に助手として就職し、一年後に東大闘争を経験しました。 ヘルメット、ゲバ棒の学生たちに「この非常時に研究とはなにごとか」と研究室を追いだされました。養老さんは「お前の仕事なんか、要するに、不要不急だろと実力行使されたのであった」とうけとめたのです。この体験が「不要不急」という言葉に敏感になった理由なのだと書かれています。

 かれは学生たちの言動をはね返すことはしませんでした。「紛争は終わっても、気持ちの中に問題は残った。学問研究にはどういう意味があるのか、学生たちはそれを問いかけただけで、やがていなくなったが、私の中にその問題が残されてしまった」と学生の問いかけをうけとめたのです。

 この問いにたいして答えてくれる人はいない、解剖学の意味を尋ねるのは解剖学の課題ではない、「自分のやることなんだから、すべては自分で考えるしかないんだ」と気づいたといいます 。 養老さんは夏目漱石がロンドン留学で文学論は教えてもらうものではなくて自分で考えるものだと気づき、自立したことを聞き、漱石もそうだったのかと感動しました。

 そこで不要不急は自分のことではなく、「そのモノサシは周囲、つまり世間という状況にある」と論が進められています。緊急事態下でも勤務せざるを得ない仕事がある、医療もそうだが、養老さん自身は常に不要不急を感じていた。「俺の仕事って結局は要らないんじゃないのか」と。かれの思索の行き着いた先は「世間がどういう仕事を私に要求し、他方、私はどういう仕事をしたいと思っているのか。その両者にどこまで一致点があるのか。その一致があまりない。それに気が付いた時、私は大学を辞する決心をした」といわれています。

  わたしは、 養老さんの決断は、とても重たい決断だったのだと思いました。


不要不急について――その2


 寄稿文はコロナウイルスの不要不急考に移ります。次のように言われています。寄生虫は宿主である人が死んでしまっては自分も死ぬ、だから「宿主を生かさず殺さず状態にして、自己と子孫の保全を図る。」ウイルスも同じだという。

 「ヒトは適当に感染し、適当に病気になり、適当に治癒する。これならウイルスはヒト集団の中で生き続ける。ヒト集団全体を滅ぼしてしまっては、共倒れになってしまう。『新しい』ウイルスとは、新たにヒト集団に登場し、そこに適応していくまでの過程にあるウイルスである。

 コロナもやがてそうなるはずで、薬剤が開発され、多くの人が免疫を持ち、一種の共生関係が生じて、いわば不要不急の安定状態に入る。」

  科学的に言えばこういうことだ、ということだと思います。新型コロナウイルス感染症でヒトがみんな亡くなってしまうのではなく、必ず感染状況は「不要不急の安定状態」になるということを知っておかなければ対応ができません。

  ヒトゲノムの4割がウイルス由来だということはわかっているが、その4割がどういう機能を持つかわかっていないのだそうです。ヒトゲノムの中で明瞭な機能が知られているのは全体の2%に過ぎないのだそうです。あとは機能が知られていないのでジャンクDNAと呼ばれています。ジャンクとはガラクタという意味です。

  養老さんの不要不急論でいえば、ジャンクの方が全体を占めているといってよいのだから、要であり急である、つまり必要不可欠の機能を持っていることが知られているゲノムというのは生物学的にはむしろ例外ではないかということなのです。


不要不急について――その3


 寄稿文の終わりのところで、養老さんは次のようにまとめています。 「コロナ問題は、現代人の人生に関する根源的な問いを、いくつか浮かび上がらせた。」

  この言葉をわたしに照らして、自分をみてほんとうにそうだと思います。私たちは新型コロナウイルスに翻弄され、普段は考えなくても生活にさし障りのないことを、考えないわけにはいかない現実の中におかれています。
  現代人は具体的に言うと資本主義社会で生きています。感染症がどこまで広がるかがだれにも予測できず効く薬がない以上は、資本家にとっては生産を止めてでも感染症の拡大を封じ込めることが最大の課題となります。生産はチームで行われているからチーム員の間で伝染してしまい、とめどなく感染症が広がり、亡くなる人も出てきて生産現場が崩壊してしまうのが怖いからです。

 しかし資本家が生産を止める過程は、労働者への犠牲転嫁の過程として進められているのです。首切り、賃金カット、休業による個人経営者の破産と労働者の失業などという問題が労働者階級全体にかかってくるのです。これらはすでにはじまり進行しています。

  われわれ労働者とその家族は路頭に投げだされます。食べていけないということが現実に突き付けられ、死ぬかもしれないという危機感と不安と恐怖が湧いてきます。絶望し自殺する人もいました。

 しかしそれは感染症のせいとはいえないのです。新型コロナ感染症にたいする社会の対応によって生みだされたものなのです。直接的な問題は政府の医療政策の矛盾が感染症の拡大を抑えることができなかったことに起因します。これが社会的混乱の直接的要因であることは間違いありません。けれども問題は拡大する感染症にたいする社会の対応にあります。つまり資本家の労働者への危機の犠牲の転嫁の行動(解雇、賃金抑制など)とそれを許す労働運動の弱さが根本的問題なのです。

 アメリカでは警察官による黒人労働者殺害事件をきっかけとしてコロナ危機下の人種差別を告発する運動がねばり強く続けられています。がしかし現代世界は基本的に労働者は個々人に分断され、よるべき運動もなく自分たちがこの社会に在ることと生き方を根本的に考えざるを得ないのです。

  いま、われわれ労働者は先人の諸理論を学び適用して、社会のしくみと労働者とはいかなる存在であり、何をなすべくよぎなくされているのかを考えていかなくてはならないと思います。 その出発点は次のことだと思います。


「一年といわず、数週間でも、労働が停止されたなら、いかなる国民もみんな死んでしまうだろうことは、どんな子供でもよく知っている。」(マルクス 『クーゲルマンへの手紙』)

「たえざる感性的な労働と創造、この生産こそが、まったく現に存在しているような全感性的世界の基礎である。」(マルクス 『ドイツ・イデオロギー』)

 

 ここで言われている労働は、人間が自然に働きかけ生活手段を産出すること、労働一般のことです。労働は資本主義社会にかぎらず人間社会が存立するために必要不可欠なものとして把握しておかなければなりません。人間社会の現実的基礎は生活するための生産、人間労働にあるのです。人間は食べること、生むこと、住むことなどの諸欲望を満たすための生活手段の生産を行わなければ生きられません。これは人間社会にかんする本質論にかかわることです。

 現在は資本主義経済体制の社会です。資本主義の労働過程は価値増殖過程と統一された労働過程です。資本の労働過程でうみだされた価値は資本家が取得します。
 コロナ感染症の広がりを防止するために資本家・経営者は生産を停止せざるをえなくなりました。生産、流通の停止・滞りによる経済危機のつけは労働者におしつけられ、生活が危機に落としこめられています。この社会の富は労働者から労働力を買った資本家が生産過程でその使用価値を生産諸手段とともに消費することによって生みだされたものなのです。生産を停止するということは労働者を労働させることによって新たな価値をうみだすことができなくなることを意味するのです。資本主義の危機が進行しており、反対運動、とくに労働運動が資本家に奉仕するものへと変質しているために一切の犠牲は労働者に転嫁されているのです。

 コロナ危機は、現代社会が富めるものと貧しいものとに、感染を避けることのできる環境で暮らせるものと、避けることが困難な環境で暮らすことを強いられているものとに分極化していることをうきぼりにしています。本質的には資本家階級と労働者階級に分裂した社会であることがむきだしのかたちであらわになっているのです。こういう階級社会が変革されなければ人間的な暮らしを実現することはできないのです。

 わたしの意見にはマルクスの理論が適用されています。しかし、マルクスの社会観と変革の思想は今や古いものとして労働運動や平和運動からかえりみられなくなっています。ソ連邦が自己崩壊しスターリン主義は自己破綻しました。しかしこのソ連邦の崩壊はマルクス主義の破綻として宣伝されることによって労働運動、平和運動は脱イデオロギー化の大波の中に没してしまいました。この状況はのりこえなければならないと思います。

 わたしは、養老さんが全共闘の学生たちに研究室から追いだされたちょうどその時代に、大学の学園闘争の実践の中でそれまで社会にたいして抱いていた漠とした不安と疑問について考え、ある結論に到達しました。自分の中のモヤモヤした不安は社会の矛盾のわたしの価値観を通した反映であり、内なる矛盾は、外なる矛盾の認識と変革的実践によってしか解決しないという単純なことでした。そして自分の実践にとって必要な諸理論をマルクスから学びました。学んだ社会観と変革の論理は今日の新型コロナ危機の底にあるものをつかみ変革していくことに適用しなければならないものだということを確信しています。新型コロナ危機は私にやはり社会変革のいばらの道を進むしかないということ突きつけました。その道は要かつ急です。


不要不急について――その4


  養老さんは次のように結んでいます。「不要不急」という言葉一つをとっても、さまざまな意味合いを含む。右の内容は、この言葉から私が連想したことを述べただけで政治家が言う不要不急と関係ないことはわかっている。さらに現在、要であり急である仕事に携わる人には、不適切な発言と思われる可能性がある。しかし人生は本来、不要不急ではないか。ついそう考えてしまう。老いるということはそういうことなのかもしれない」と。

 この言葉を素直に理解することは難しいと感じました。

  人生はなるべくしてなる、老いたいまからふりかえると、自分の生き方には必然性があった、自立した人生のときは過ぎ、いまにいたった、自分にもはや要も急もない、と考えてしまうことが老いるということなのかもしれない。ということなのだろうか。違うかもしれません。本来そうあっていいのであるということなのかもしれません。

 わたしもそうなりたい、とも思うのですが、いまそういうわけにもいきません。

コロナ危機下で、働く者の生活を守る闘いは要であり、急です。

 働くもののための新しい将来社会を創造できたとき、はじめて人生とは不要不急である、といえるのでしょう。                              
コロナ危機下で「不要不急」を考えるブログ管理人