[148](投稿)高知県東洋町の闘い

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以下の2つの記事は「北海道新聞」の電子版からの引用です。
① 核ごみ 癒えぬ傷今も 07年文献調査応募の高知・東洋町 賛否二分 最後は撤回
08/30 00:31

 原発から出る高レベル放射性廃棄物(核のごみ)の最終処分場選定を巡り、これまで全国で唯一、第1段階の文献調査に応募した高知県東洋町。2007年の応募は町を二分する大論争となり、最後は反対派の意見が通って応募は撤回されたが、今も町民の心の傷として残る。後志管内寿都町が文献調査への応募を検討する中、東洋町民は何を思うか、高知県東端の小さな町を歩いた。

 「あの山に核のごみを埋める計画だったんです」。東洋町東部の高台を案内してくれた町議の田島毅三夫(きさお)さん(73)はサーフポイントとして有名な生見海岸を挟み対岸の山を指さし、「処分場ができれば、風評被害で名物のカツオ漁やポンカン栽培も続けられなくなったかも」とつぶやいた。

■魅力的な交付金

 東洋町が文献調査に応募したのは07年1月。国はこれを受け、文献調査に対する交付金を新年度から大幅に増額し、町は調査が見込まれる2年間で最大20億円を得られる見通しだった。

 1995年に4千人だった人口は3400人となり、ポンカン畑の放棄地が増えるなど基幹産業も衰退。国の地方財政見直しで地方交付税も減らされる中、一般会計が年20億円の町にとって巨額の交付金は魅力的だった。当時の田嶋裕起(やすおき)町長(77)は退任後の08年の著書で、応募した理由について「交付金の使える事業は数え切れない」「最終処分場ができれば国内外から年10万人以上の見学客が訪れる」と振り返っていた。

 だが町内では「魚も果物も売れなくなる」と風評被害を心配する声が噴出し、町外からも反対派の団体が集結。推進派は交付金で電気料金や保育料が安くなると訴えるチラシを配るなど巻き返し、双方が意に沿わない商店の不買運動を展開するなど対立は激化した。

 最終的には田嶋町長が4月に「信を問う」と辞職して出直し選挙となり、町外出身の反対派が圧勝。新町長が応募を撤回したが、その後も町政の混乱は続いた。4年後の11年の町長選で町内の「融和」を掲げ、反対派町長の再選を阻んだ現職の松延宏幸町長(62)は「1年目はどの自治体の首長と名刺交換しても『まだもめてますか』と言われ、後遺症克服には10年かかると思った」と振り返る。

■議論不足悔やむ

 ただ、この13年間、推進派から反対派に転じた町民も少なくない。推進派だった元町商工会長の西岡尚宏さん(63)は11年の東京電力福島第1原発事故に触れ、「絶対安全と言っていた国への信頼が揺らいだ。あのまま進めたら、ひどい対立が続いただろう。やらんでよかった」と述懐する。

 その上で「今もわだかまりが残っているのは、反対派と推進派がきちんと話し合う場を設けなかったことも原因だ」と述べ、双方が町の将来像も含め真剣に議論すべきだったと悔やむ。

 町の人口が2300人となった中、町内には「違う道もあったのでは」と核のごみ関連の特需を手放した選択を悔やむ声も残る。ただ、当時の推進派で、4年前にポンカンの栽培・加工品開発に参入した建設会社社長山下龍造さん(45)はこう言う。「町の強みは自然や観光。地元にあるもので勝負していく。大変だけどやるしかない」(犬飼裕一)


② 貧乏は我慢 核の町は嫌 高知・東洋町長インタビュー
08/30 05:00
今後も住民の意思に反して文献調査を検討することは「あり得ない」と話す東洋町の松延宏幸町長

 高知県東洋町が2007年に全国で初めて核のごみの最終処分場選定に向けた文献調査に応募した当時、町職員だった松延宏幸町長(62)に現在までの状況を振り返ってもらった。

 核のごみ問題で町は二分され、町民には今もしこりが残っています。近隣自治体とも断絶され、全国に発信された悪いイメージは払拭(ふっしょく)できていません。人口は当時の3400人から2300人に減り、財政も当時より悪化しています。

 ただ、仮に最終処分場を受け入れていたら、外から働く人やカネは入ってきても、後世に残せる自然や風景を失うことになったでしょう。それはこの町にしかない可能性が丸ごとなくなることを意味しています。

 後志管内寿都町が文献調査への応募を検討しているという報道にはびっくりしました。詳しい状況はわかりませんが、近隣自治体が反対している構図は東洋町の時と同じですね。

 東洋町が文献調査に応募した時、私は税務課長で、直接関わりはありませんでしたが、当時の町長は一発逆転を考えたのでしょう。ただ、文献調査を受けるだけで年10億円もの交付金をもらえるなんて「そんなおいしい話はないわな」とは思いました。

 大もめにもめた後、地元出身ではない反対派が町長になり、応募は撤回されましたが、町政の混乱は続きました。それでも町民の多くは覚悟を決めました。「貧乏は我慢できても、核の町となるのは嫌だ」と。この町には自然しかありません。町と経済団体などは今、アユの生息環境の再生や自然体験事業の充実、名物のポンカン加工などに力を入れています。(聞き手・犬飼裕一)

 まつのべ・ひろゆき 1958年、東洋町出身。法政大卒。81年に町役場に就職し、税務課長や総務課長を経て2008年6月に退職。調査に反対する町長が当選した4年後の11年4月の町長選に「融和」を掲げて立候補し、現職の再選を阻んで初当選した。現在3期目。


※※※

 解説は全く不要でしょう。高知県の東洋町の核のごみに対してこれまでの長い道のりをどのように乗り越えてきたかを知ることによって、北海道後志(しりべし)管内寿都(すっつ)町が、この先、高レベル放射性廃棄物=核のごみと、どう向き合って行けばよいのかを示して余りある記事ですよね!! 「おいしい話」には「裏があります」ね。労働者、人民の皆様はどのようにお考えになりますか?



 ◆◆◆ 核のごみ捨ててみてこそ東洋町寿都(すっつ)の手本ここにあります



 ◆◆◆ 観光とポンカン作り生きていく大変だけどそれしかないね



     石川木鐸(ぼくたく)作