[649](投稿)核のごみ処分場、合意形成なき選定手続き

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<核のごみどこへ 五つの論点>4 社会 
合意形成なき選定手続き
06/23 10:53(北海道新聞デジタルより)


 国内初の原子力関連予算が国会で成立した1954年春、日本学術会議原子力の平和利用を推進する立場から、核兵器の研究を拒否し、自主的かつ民主主義的な研究開発と利用、情報の公開をうたった原子力三原則を決議した。▼ 55年公布の原子力基本法にも明記されたこの原則を起草し、後に同会議会長となった物理学者の伏見康治氏(2008年没)は後年、原発から出る高レベル放射性廃棄物(核のごみ)の処分問題を学会で問われ、こう漏らしたという。「当初、放射性廃棄物がこれほど深刻な問題になろうとは考えていなかった」
■科学超える問題 伏見氏にこの問いを投げかけた原子力資料情報室の山口幸夫共同代表(83)は「原発の黎明(れいめい)期から科学者は、核のごみの処分は科学が解決できると楽観的に考えていた」と述べ、こう強調した。「世の中には科学だけでは答えを出せないトランス・サイエンス(科学を超える)の問題がある。核のごみは社会的に熟議して決めるべき問題だ」▼ 「トランス・サイエンス」という考えは72年、米国の核物理学者アルビン・ワインバーグ(06年没)が唱えた。例えば、科学は有害物質が人の安全を脅かす確率を数字で示せても、社会がそのリスクを受け入れるかは答えられない。だから安全や環境、倫理に関わる問題は各層の市民が議論して社会的な合意を得る必要があるという考えだ。▼ 核のごみの処分も漏れ出した放射性物質が地上に到達する時期や量など科学的な知見は徐々に積み上がってきた。ただ、社会がそのリスクを許容するか、誰が将来世代に責任を持つのか、地方と都市の負担は公平か、人によって正解が違う論点が数多くある。▼ 2000年に核のごみの処分場選定手続きを定めた法律が施行された当初、処分事業を担う原子力発電環境整備機構(NUMO)では「巨額の交付金が出るから調査の応募が相次ぐのではないか」と内部で対応が検討されたという。▼ だがこの20年で調査に応じたのは後志管内寿都町神恵内村だけ。しかも同町の片岡春雄町長(72)が「小学校に入学して基礎から勉強するのと同じように徐々に知識を得ればいい」と言ったように、住民は合意形成どころか、議論の入り口に立ったばかりだった。

■「一足飛び」指摘  原子力三原則の決議から60年近くを経た12年、日本学術会議は核のごみの処分場選定が行き詰まっているのは社会の合意形成前に手続きを進めたからだと指摘し、国民的な議論の場が必要だと提言した。原子力政策に詳しい東京電機大の寿楽浩太教授(41)も「これでよいという社会的合意が十分になく、国民には『そもそも論』から説明しないといけない状態のまま、いきなり候補地探しに入ってしまった」と指摘する。▼ 東京電力福島第1原発事故を受けて脱原発を決めたドイツは17年に改正した核のごみの処分場選定に関する法律で、科学者、労働組合代表、環境団体代表、議員ら幅広い層で構成する委員会で議論して手続きを進める枠組みを整えた。▼ アリストテレス時代の古代ギリシャ都市国家ポリスでは、市民が中心部の広場に集まってさまざまな問題を討議したという。海外の核のごみ処分に詳しい島根県立大の浜田泰弘教授(54)はこう説く。「ポリスでの討議が原点となり、欧州では問題を共有して時間をかけて議論する『熟議民主主義』が根付き始めている。日本も決定を急がず、立ち止まって議論する必要があるのではないか」

※※※ 骨川筋衛門のコメント
 2000年に「核のごみ=高レベル放射性廃棄物」の最終処分の選定手続きが定められました。しかし、北海道内の弁護士らから「核のごみ」の最終処分について疑問の声が上がっています。その問題の内容とは、事業体の原子力発電環境整備機構(NUMO)が自らの判断で次の段階の調査地や建設地を選定できる条文になっているからです。
【注1】国の担当者も選定にあたって有識者の評価を受ける必要性を認めています。(朝日新聞デジタル2021・4・3より) 
 ◆ この点について片岡寿都町長は、町民の投票で文献調査の次に行かないことができると「全くのウソ」を言い放っているので、ここに気がつかないと大変な目に遭(あ)います。

 ◆ここで「トランス・サイエンス」という言葉が出てきますが、これは科学だけでは決められないことを議論を尽くして「社会的に決める」すなわち「例えば、科学は有害物質が人の安全を脅かす確率を数字で示せても、社会がそのリスクを受け入れるかは答えられない。だから安全や環境、倫理に関わる問題は各層の市民が議論して社会的な合意を得る必要があるという考えだ」とありますが、その価値観を「正しく判断して持てるかどうか」がまた問題となります。「核のごみ」の問題は「人類の命の問題」です。広島や長崎に落とされた原水爆の是非を問うのと同じことです。「戦争の時代だったから仕方がなかった」ということも成り立ちます。しかし、それでよいのでしょうか?議論は尽くされるのでしょうか?権力が横暴にふるまえば、権力が人民を抑え込んで、権力を振るう主体が差配することになります。地球上にある現代社会を見渡してみてください。横暴な権力は諸外国だけでなく、これまで日本で続いてきた政権や現政権が、「平和的」で、「人のために」やってきたことばかりでしょうか!!?今問われているのは、原発の強硬な再稼働であり、福島の汚染水の海洋放出を強行せんとする政権の市井とその内容です。また、放射能が異常値を示す汚染された土地に無理やり住むしかなくなるという「政策ならぬ政策」です。放射能測定器を勝手にいじって、放射線量を低く見積もるようにしたり、これまで放射能の基準値を低く定められていたのをかなり高くしても平気な国家でありその政策です。◆これらのことをよくよく考えないと「落とし穴」に落とされてしまいます。

 注1:     
 同法は2000年に制定された。最終処分場の選定は、①論文や資料を調べる「文献調査」(2年間)②穴を掘って地質を調べる「概要調査」(4年間)③実際に地下施設をつくる「精密調査」(14年間)の3段階からなる。

各段階で一定の条件に適合した地区から次の調査地区を選び、最終的に建設地を定めることになっている。各条文ではNUMOが主語で、選定をする主体になっている。(朝日新聞デジタル2021・4・3より)