[732]多事争論「政権批判はムダですか 汚れたお重 洗わぬわけには」に想う

f:id:new-corona-kiki:20211211131821j:plain 
 「政権批判はムダですか 汚れたお重 洗わぬわけには」(12月8日朝日新聞の《多事争論》)はおもしろかったです。
 筆者の高橋純子さんはコラムのおわりに「ふう。目の奥が痛い。眉間のしわは深い。この原稿、いったい何回かき直したっけ?」といいます。苦労して書いただけあっておもしろい。
 高橋さんは立憲民主党の報道をみていて、武田泰淳の妻百合子の「誠実亭」というエッセイの一節を思い出したそうです。エッセイには武田が飲食店で食器洗いのアルバイトをしたとき、客が汚れた出前弁当のお重を洗って返してくれることがあったが、もう一度洗わなければならないので客の礼儀正しさと思いやりはムダでうっとうしいものに感じたという回想が書かれていたそうです。
 しかし高橋さんは洗わず戻すことを皆がすべきだというのは違うのではないかといいます。衛生面に気を配ったり、洗い場に立つ人の身になったり、自分でできることは自分でやるというよき心がけでやることをやめろというのは筋を違えている、という話からはじめて、政権批判をすることがムダでうっとうしいと批判される昨今の風潮にチクリ。モリカケ問題サクラを見る会や学術会議任命拒否など「汚れたお重が積み上がっている」ことを洗おうとするのは当然だと。
 コラムの下段に移ってこう言う。「政権批判への冷ややかな視線の背景にはもうひとつ、権力への警戒がほどけ、権力を頼む姿勢がひとびとの間で強まっていることもあるのでは」。
 高橋さんは法哲学那須氏の意見を紹介しています。
 「『他人の自由はリスク、自分の自由は負担』という感じ。他の人が自由にすると、こちらがどんな目に合わされるかわからないし、自分に自由が与えられると、自己責任だと言われて、そのツケは全部自分に回ってくる」といい、だから人びとはいま「自由」より法、特に国の強制力=権力に頼るようになっている、と那須は言っていると。
 多くの識者が「権力批判よりも、権力を使って何をなすのか前向きの提案をすべきだ」という方向に流れていくことに那須は「本当に望ましいことを実現するためには、時間をかけてでも、権力の手は借りない」という気概を取り戻せと言っていると高橋さんは受けとめた。
 この意見を受けとめて高橋さんが言うことは明快です。
 「『よいこと』のためなら権力を使っていいのかーーとても大事な問いだと思う。一度この問いの地点まで身を引いて考えてみないことには、『目指す社会』に向かっているはずが、『いまある社会』に鼻面を引き回されるだけになってしまうだろう。」
 
 いまの公式メディア界にこういう意見を書く方がおられるとは驚きました。考え考え何度も書き直したのでしょう。
 私も同感です。これを読んで私が連想したのは、ハラスメントといわれる行為を会社経営者に訴え懲戒処分させるということによって解決がはかられるという風潮です。今は被害者はひとりでお上に訴えるしか方法がないとはいえ、会社のコンプライアンス規定にのっとってハラスメント苦情の受付窓口に訴えるという会社の労務管理のルートに依拠して、「加害者」とされる人を処分させるのは再発防止にはなりません。当事者ではない労働者が萎縮するだけだと思います。いまこう言う私自身、「もちろん労働強化の強制や嫌がらせはよくありませんが」、と補足をつけ加えないと意見が言いづらくなっているのが当世の雰囲気です。
 私が問題だと思うのは、権力を頼むしか自分の窮地をしのぐことができなくなっている状況です。そこまで労働者の社会的分断状況が進んでいるということです。

 いまどの企業でもハラスメント苦情の受け付け窓口を設けています。言葉がハラスメント語かどうかを基準として訴えられた人を会社が罰するというように流れています。ハラスメントという言葉が妥当する行為をいつどこで誰が誰になんのために行ったのか、訴えた人がハラスメントと受けとめた他者の行為の原因を明らかにして仕事量、人員不足などのストレス要因をなくす努力を会社にさせなければハラスメントの根をたつことはできません。
 それを可能にするのは労働者の団結した闘いです。