[769]幸福度を測るとは

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心の資本?

 日経新聞は「成長の未来図2」で「心の資本」は十分ですか?と問いかけています。日立製作所の子会社ハピネスプラネットが「人の幸福度」を測る独自技術を開発し商品化したのだそうです。これには驚きました。

 人が幸せを感じているかどうかは呼吸や心拍数、筋肉の微妙な伸縮など無意識の変化に表れ、その変化をスマホのセンサーが読み取り幸福度を測るのだそうです。約15年間で集めた1千万日分の実証データを活用してAIが個人の幸福度をはじきだし、その改善に役立つメッセージを自動的につくり送信するのだといいます。朝スマートフォンやスマートウオッチに「他人のいいところを探しましょう」「15分だけ昼寝をしてみたら」といったメッセージが届くようになります。

 そのお陰で実証実験では「心の資本」と呼ばれる指標が平均33%向上しそれが営業利益10%押し上げに相当するといいます。心の資本というのは「自信をもつ」「楽観的に考える」など複数の要素を数値化したものだと言いますが、要するにAIが労働者の「やる気」を励起するアドバイスをして労働者がその気になった度合いの指数的表現のことをいうようです。


熱意を持って仕事をする社員、日本は5%


 米ギャラップ社の調査によると熱意を持って仕事をする社員はアメリカで30%超、北欧で20%前後で日本は最低水準だとされています。パーソル研究所と慶應大学研究室の調査では幸せの実感が低い人が多い企業は減収しているところが多かったそうです。そうならないように三菱東京UFJ銀行など日本の有力企業が相次いで社内の幸福度を調べる仕組みを導入しはじめているといいます。

 毎日幸福度センサー(=ウソ発見器のようなもの)を繋がれ監視され、仕事をすることが幸せに思えるようにつぶやかれる。それはAIを操る資本家・経営者による究極の労務管理強化です。日経新聞の記事執筆者も次のように書いています。「従業員の『気持ち』の領域にまで踏み込むことに賛否はあるかもしれないが、『心の資本』の再構築なしには成長の未来図が描けないという危機感がある。」

 20世紀はじめにアメリカでテイラーが生産性向上を目的とした生産過程の主体(労働者)客体(生産手段)両面の技術化と労務管理システムを提唱しました。生産過程に「科学的管理法」と呼ばれているシステムを導入し労働者の動作の効率化と工具などの労働手段と手順の標準化によって生産性向上に成功しました。今モノづくりだけでなく情報通信サービスなどを生産する労働者の生産性向上方式が模索されています。「心の資本」づくりはその最たるものです。労働者の生産活動中の幸福度の向上による「心の資本」の指標を上げることが追求されているのです。

 労働の生産性とは、過程的には目的に合致した生産的実践の作用度を意味し、結果的には最小の労働をもってする最大の生産物に示されます。労働の生産性向上は本質的には労働過程の主客両面の技術上の改善によって実現されます。「心の資本」というのは労働過程の主体面の技術化にかかわります。一昔前に「乾いた雑巾をさらにしぼるように」と形容されました。労働者は労働過程で肉体的精神的にへとへとになるわけです。しかしそこで資本家・経営者は労働者の頭の中まで支配することはできませんでした。たとえば流れ作業のなかで働く労働者は熟練してくると、意識のなかではいろんなことを考えながら労働ができました。いやいや仕事をしても外からはわかりにくい。「心の資本」づくりではセンサーをとおして労働している労働者の「幸福度」が測られるというのですから究極の労務管理です。

 私たち労働者は食べるために働いています。私は経営者から与えられた仕事を一緒に働く労働者に迷惑をかけない程度にこなすために真面目に働きます。働いていて仕事が面白いと感じたり、充実感をもつこともあります。ですがセンサーを体につけられ「幸福度」測ってアアせよコウせよと言われたらおかしくなりそうです。

 しかしそれが現実に行われているのです。資本家階級はそこまでして労働の生産性向上を実現しないと生き残れなくなっているのでしょう。労働者にとって益々大変な時代になりました。いま、この社会で働くとは何かを根源的に考えないわけにはいきません。


資本主義のなかの労働


 資本の直接的生産過程で労働者の労働力は資本家のために消費されます。労働者の人格は物化され物が人格化するという転倒現象が起きます。このことは忙しいときにフッと感じることがありますね。労働者は生産すればするほど生産物は自分とは疎遠なものとなります。労働生産物は資本家のもの、労働の目的は資本家の目的であり、労働者はそれを自分の目的だと思って労働力とともに労働対象に注ぎこみます。労働は疎外されます。労働力が商品化された社会では労働者は疎外された労働から自由になることはできません。

マルクスは『経済学・哲学草稿』「(四)[疎外された労働]」のなかで次のようにいいます。

 「労働者は、彼が富をより多く生産すればするほど、彼の生産の力と範囲がより増大すればするほど、それだけますます貧しくなる。労働者は商品をより多くつくればつくるほど、それだけますます彼はより安価な商品となる。------労働者が骨身を削って働けば働くほど、彼が自分に対立して創造する疎遠な対象的世界がますます強大となり、彼自身が、つまり彼の内的世界がいよいよ貧しくなり、彼に帰属するものがますます少なくなる」「国民経済学は、労働者(労働)と生産のあいだの直接的関係を考察しないことによって、労働の本質における疎外を隠蔽している。------労働の対象の疎外においては、ただ労働の活動そのものにおける疎外、外化が要約されているにすぎないのである。では、労働の外化は、実質的にどこにあるのか。第一に、労働が労働者にとって外的であること、すなわち、労働が労働者の本質に属していないこと、そのため彼は自分の労働において肯定されないでかえって否定され、幸福と感ぜずにかえって不幸と感じ、自由な肉体的および精神的なエネルギーがまったく発展させられずに、かえって彼の肉体は消耗し、彼の精神は頽廃化するということにある。-----」

 
 行きづまった現代資本主義において労働の疎外は深まっていきます。労働を経済学=哲学的に考えることがどうしても必要だと思います。