[896]「戦争はいけない。臆病者で結構」

 
 先週の朝日新聞のコラム「多事奏論」で高橋純子解説委員が歯切れのいい文章を書いています。
 見出しは「ブレーキが弱い国 戦争はいけない。臆病者で結構」です。これだけで言いたいことがわかるような気がします。
 冒頭で「━━戦争はなぜ起きるの?」という質問が出されます。ついつい、いつどこで起きた戦争?······ウクライナ戦争は······、と言いたくなりますが、それは野暮。コラムでは「人間が愚かだからだよ」という答が出てきます。

 それはそうかも知れないが、と反問したくなりますが。

 その答にたいしてさらに質問が出されます。
 「━━どうしたら愚かじゃなくなるの?」
 答えは「ちゃんと考えることだよ」です。

 そう言われ私はなるほどという気持ちになりました。

 この問答は筆者が読んだ絵本に出てくる話だそうです。
 ここから筆者は考えることを徒然に語っています。
 かつて外務省担当だったころ、幹部に「『唯一の被爆国として』だなんて、世界で言ったら笑われますよ」、だって日本は米国の核の傘に入っているんですから━━
 こう言われ、筆者は「しかし人にも、国にも、立ち返るべき原点というものがあるはずだ。愚かな戦争に突き進んだ敗戦国であり、被爆国であること。そこから足を放して、どうやって日本外交なるものに背骨を通すのだろう?」と考えました。
 当時筆者は散歩していて外務省の敷地にある陸奥宗光銅像と向き合ったそうです。日清戦争で三国干渉を受諾した外相・陸奥宗光の日記「蹇蹇(けんけん)録」の大要を紹介して、「当時の日本社会の様子が垣間見える」と言っています。
 「妥当中庸の説を唱えれば卑怯未練、愛国心がない者と見られるので声をのんで蟄居閉居するほかない」「国民の熱情は主観的判断のみで客観的考察を入れず、内を主として外を顧みず、進むだけで止まることを知らない」

 いまだって同じです。プーチン・ロシアからウクライナNATOの動きがどのように見えていたのか考える必要がある、と言うとロシアを擁護しているのかという非難の視線を感じて口にしづらい昨今です。
 
 コラムの文章を引用します。
 「ロシアのウクライナ侵攻を受けて、敵基地攻撃能力を持つのだ、核共有も議論しろ、防衛費を増大するぞ、憲法9条を改正すべきだなどと、勇ましい政治家がクイズ番組よろしく『早押しボタン』を連打してやかましい。」
 「彼らは往々にして、戦争はいけないが······、と前置きしてのち語り出す。しかし、『戦争はいけない』に『が』や『けれど』を接続させるから、つるり戦争の方へと滑ってしまう。『戦争はいけない。』。まずはそう言い切ること。小さな『。』の上にかじりついてでも考え抜くことができるか否か。そこがいま、問われていると思う。」

 まさにそうです。が言われていることを貫くのは大変です。われわれ労働者民衆は、資本主義現代の過酷な労働のなかで考える力を削がれ、政治家のプロパガンダにさらされています。「『戦争はいけない。』と言い切る」運動の波が必要です。実践するなかで考えることが考え抜く自分をつくる第一歩になると、私は経験を通じて感じています。

筆者は「この国のブレーキは大変に利きが悪い。」と言います。
 
 ブレーキの利きも悪いが、同時に西側の一員としてアクセルも吹かしてると思います。ウクライナ戦争に群がっている米欧の武器商人は色めき立ち、NATO諸国家はウクライナ政府の戦争政策を賛美し支援するアクセルを踏んでいます。日本も「勇ましい政治家」が今こそチャンス到来と戦争に沸き立っています。
 
 考え抜くものを臆病者と呼ぶなら「私は臆病者として生きたい」という筆者のような気骨あるジャーナリストがいることに、驚きすら覚えるのがこんにちのメディア情況です。