[1149]『大衆的検閲について』『世界』2月号

 作家桐野夏生が2022年11月にインドネシアジャカルタで開かれた第33回国際出版会議で基調講演を行いました。その全文が『世界』2月号に寄稿されています。

 「大衆的検閲について」というタイトルで、第二次世界大戦中に徴用された林芙美子の足跡を辿り「『暗黒の時代』の記憶」を語った桐野夏生が次のように言います。

 「林芙美子の例をみるまでもなく、第二次世界大戦世界大戦前と戦中の日本は、国家による検閲と弾圧が厳しい暗黒の時代だった。作家だけでなく、出版社の編集者や記者も反国家的•共産主義的だと見做されれば、たちまち投獄された。その基準も曖昧で、かつでっち上げも多かったから、無実の罪で亡くなった人も少なくない。」

 日本軍は、新聞社にたいして紙パルプの供給制限をすることによって戦争批判記事を封じたといいます。

平和で自由な国の「検閲』

 桐野さんの講演のタイトルは国家による検閲ではなく、ごく普通の人々の「検閲」による表現の自由への圧力です。桐野さんは新型コロナ危機のなかで言われた「自粛」について語っています。

 

 講演で語られている当時を振り返ってみます。三年前、政府は新型コロナ感染の拡大防止のために緊急事態宣言を発し行動制限をかけるとともに、メディアを通して国民に不要不急の外出の自粛キャンペーンを繰り返しました。

 当時私は採算を度外視した感染症にたいする医療施設をつくることを優先すべきと考えました。が、政府の動きは鈍く自粛要請が事実上の強制命令のように繰り返されました。いわば自助努力せよということですが、私は「不要不急の外出自粛」というフレーズは、戦時中の「欲しがりません勝つまでは」といった戦時標語のこんにち版のようで強い違和感をもちました。

 

 桐野さんの講演にもどります。

 「要請に従わない店や個人に対する告発の電話が、警察に多くかかってきたという。······これら自粛を強要する行為をする人々は、『自粛警察』と呼ばれた。·······しかし、取り締っているのは、警察ではなく、一般市民だということが、あたかも第二次世界大戦中の「隣組」を思い起こさせた。」

 そして次のようにまとめています。

 「『自粛』という概念が、いかに容易に、他人の自由を束縛するのものに転化するかを、我々は目の当たりにしたのだ。コロナのおかげで、日本人は第二次世界大戦前夜の雰囲気と、日本人の無意識の闇を経験したと言えよう。」

 

 新型コロナ下で上から強制された「自粛」という概念は、他人の自由を束縛するものへと転化すると同時に自分の自由な行動を制限します。自粛という概念は行動を粛むという意識の働きと行動を止めること(実践)とを二重映しにした表現です。繰り返しているうちに自粛という概念自体が威力をもちます。そして事実上外出禁止という強制を自分が粛むものとして思い込むにいたります。強制という意味を含む自粛概念がコロナ下の社会の道徳的規範として威力をもちました。

 そして新型コロナ感染症に罹ることが自分の責任であり悪であるかのような雰囲気がつくられてしまいます。

 「自粛」は桐野さんがいう大衆的検閲の、コロナ版のイデオロギー的シンボルといえるでしょう。

桐野さんは「『大衆的検閲』の正体」の項で次のように言います。

 「不倫の物語なんか書くな、と出版社に抗議する人たちは、正しいことが書かれた小説しか読みたくないのかもしれない。では、『正しさ』とはなにか。私たち作家が困惑しているのは、今、人々の中に強くなっている、この『正しい』ものだけを求める気持ちだ。コンプライアンスは必要だが、表現においての規制は危険である。その危険性に気付かない点が、『大衆的検閲』の正体でもある。」

桐野さんは2016年から2020年にかけて『日没』という小説を書きました。私はこの小説を読んでいません。ご本人によれば、ある作家が読者の告発を受けて政府の収容施設に入れられ、思想教育を受ける物語だと紹介されています。

 小説で書いたことが現実に起き始めている、国家ではなく、読者による告発が世界でも起きているとある国の出版社が語っていると言います。「私の中にある、もう一つの懸念と危惧は、これまで一緒に闘ってくれた、強い絆で結ばれた出版社が、読者を獲得するために、これらの『大衆的検閲』協力するのではないかという怖れである。」

 

 新しい戦前は文化の中にも現れていると感じます。