[1186](寄稿)医療あれこれ(その78) ー1

ペンギンドクターより
その1
皆様
 3月に入り、暖かくなりました。公園では「花桃」の花が二分咲きとなり、18日からの「桃まつり」開催時には満開か散り始めるのではないかと危惧されます。
 本日はA市の従姉宅訪問について「医療」中心にお話します。旅先でも夜は21時過ぎに就寝、朝4時台の起床というパターンは一緒です。
 駅から30分歩いて従姉宅へ。まもなく88歳になる従姉がドアを開けてくれました。室内も杖を突いていますが、骨折した右手首で杖を突いていて、回復はほぼ良好と見えました。アメリカから来日した85歳の妹が朝食を作ってくれて、3人でたっぷりの朝食。私はもっぱら親族の死亡原因と現在のそれぞれの病状を報告しました。
 88歳の従姉は、二度ほど軽い脳梗塞になっていて、今回の右手首の骨折による歩行困難が主体ではないと考えました。介護保険の判定は「要支援」です。妹が帰国する3月7日以降はヘルパーさんが入る予定です。買い物なども代行してくれるはずです。介護保険の導入は2000年で、当時は潤沢な財政状況であり、医療機関長が「儲かって儲かってしょうがない」などと私に話していましたが、当然の如く今は財政難となり、要介護度の判定も厳しくなっています。ただ、自費での追加サービスもあるので、年金及び預貯金の余裕のある従姉には「100歳まで生きるとしても余裕があるのだから、サービスをうまく使った方がいい」とアドバイスしました。頭はしっかりしていて、お金の勘定もきちんとしています。私の母のように認知症がひどく「500円のタクシー代を払うのに、一万円札を出して釣は要らない」と有名になるような失態は当分なさそうです。
 アメリカ在住の妹85歳は、「発作性心房細動」があるようです。手首に「アップルウォッチ」をしていて、心電図や脈拍数などが自動的にスマホに入力されるのですが、そのおかげで診断がついたとのことでした。アメリカなどでは富裕層における「高額の腕時計」の人気が低下し、健康状況を記録する「スマートウォッチ」が人気だというのは、医療ネットワークでも話題になっていました。88歳直前で死んだ彼女のダンナは医師でしたが、心筋梗塞でステントが入り、大腸がんの手術歴があり、パーキンソン症候群を抱えていて、4年前の新年早々にレストランで食事中、食べ物の「窒息」で死亡したのですが、ワクチン接種は慎重派、パーキンソンの薬物治療も懐疑的でした。そのため彼女もビタミン剤はともかく薬物については、最近やっと「心房細動」対応の薬を一種類だけ内服開始としたようです。こちらも認知症はなく日常生活にはまったく不自由はありません。
 アメリカで彼女は一人暮らしです。二カ所に自分の家があります。4人の息子はそれぞれ独立していて、彼女は自分で今もその二か所の家を連日車を運転し50マイル移動しているとのこと。その理由は畑の作物を育てるのが大好きだからとのことでした。ダンナがパーキンソン症候群だったし、今教会のボランティア活動で「認知症」の人の面倒をみていて、自分としては「パーキンソン」と「認知症」を恐れているのだそうです。私に何度もその二つの「兆候はないよね」と聞いていました。も
ちろん大丈夫な85歳女性です。7日夕方無事に自宅へ着いたと、現地時間深夜1時半(日本時間8日水曜日午後4時半)、メールを私に送ってきました。合計24時間あまりの一人旅ですが、85歳の老人としては大したものだと感心しています。
 
 さて、A市では朝食の後、9時からの従姉の病院訪問に付き合いました。本人がお馴染みのタクシー会社に自分で電話し、この日は二か所回りました。最初は今回の骨折で入院したM外科病院です。整形外科が主体の病院です。最初聞いたときはレベルの低い病院のように思いましたが、それなりにしっかりした病院でした。妹の勧めで、私が従弟ということで、診察室にも入りました。もちろん自分が医師だということは言いません。(一般的に、どこに行っても、「自分が医者だ」ということは言わないほうが賢明です。その実例はいずれまた)。30分ほどのリハビリにも付き合いました。理学療法士作業療法士もいて、きちんとリハビリもしていました。入院中、トイレに行きたくても行かせてもらえず、オムツだったというのは、人手の足りない時間帯に「利き腕の右手首の骨折」であり、杖を使えず(歩行器という手段もありますが……)、過去の二度の脳梗塞の後遺症で不安定な歩行なので、やむを得ずの対応だったのでしょう。もっと大きな大病院なら、二カ月近い入院は不可能ですから、そこそこのリハビリの可能な民間病院での入院生活は、それほど悪くなかったとも言えそうです。実際に現場を見てそう感じました。
 続いて、皮膚科受診です。同じようにタクシーに自分で電話してタクシーを呼びました。いつもほどではないということでしたが、込み合った皮膚科クリニックでした。こちらも診察室に私が付き添いました。骨折入院中に足首付近の皮膚をかゆいということで反対の足でひっかいて感染した皮膚炎でした。きれいに治っているようでしたが、来週また(火)(金)と外来受診を指示されていました。アメリカの妹は、もっと効率的に自宅での消毒など指示すべきなのにとブツブツ言っていました。私もそう思うほど、改善していましたが、事務員も4-5人いましたし、外来治療にて稼がないと経営できない状況なのでしょう。通院がすべてタクシー利用で、一割余りの補助が出るようでしたが、出費はかさみます。金銭的に余裕がないと、病医院通院は大変です。ただ、タクシー会社も老人の通院で生き延びているのかもそれません。またある意味でこの通院が老人のリハビリに一役買っているともいえます。
 
 帰宅は12時過ぎて、昼食はまた妹の手料理で、3人でいろいろ昔話をしながら3時過ぎまで過ごしました。この姉妹は同級生のF君の姉二人ですから、私は赤んぼの頃から面倒をみてもらっていることになります。隣同士ですから、私のことはよく知っているわけです。この隣のF宅には、高校時代にM君とK君が下宿していました。彼らのことも覚えていました。皆年はとりましたが、こうして昔の話ができるだけでもいいとしましょう。
つづく