[1191]佐藤優の書評『「能力」の生きづらさをほぐす』(勅使川原真衣著)

 11日の毎日新聞、書評欄「今週の本棚」を読みました。

 『「能力」の生きづらさをほぐす』(勅使川原真衣著)の書評を佐藤優さんが書いています。勅使川原氏は東京大学大学院で教育心理学を専攻し、「敵地観察」のつもりでコンサルタントになったと紹介されています。この書評を佐藤氏は入院中の病院で書きました。

 リベラルな思考の持ち主で格差是正を価値観に据える勅使川原氏が、自分の価値観と正反対の世界で働き悩みながら仕事を続けてきた過程が行間から伝わってくると佐藤氏は言います。

 勅使川原氏は2020年にステージ4の進行性の乳癌にかかっていることがわかりました。この本はその後に書かれました。本書は2037年に天国から勅使川原氏が幽霊となって地上に現れ、23歳になった息子と17歳の娘と会話するという体裁で書かれているそうです。子どもが母の助言を必要とするときに自分はこの世にもういないという寂しさが伝わってくると佐藤氏はのべています。

 佐藤氏が着目したのは大人になった息子と高校生の娘との人材開発に関するやりとりです。

 本のなかで母としての筆者が息子に批判されています。

「うまくいってないんです」という顧客の相談に、解決する手立てはほかにもあったかもしれないのに、能力の問題に落とし込んで解決しようとしたのは人材開発業界ではないかと言われ、娘には「最近どうも目が疲れるな」とメガネ屋に言えばメガネ屋は「視力が落ちてきているのかもしれません。今の視力を測り、あなたにぴったりのメガネをつくりましょう」って言うわな。そういうことでしょ?能力屋さん、と言われています。

 佐藤氏は能力主義を揶揄したこのやりとりを紹介して次のように感想を言います。「人間の能力と適性は多様であり、それを数値化して比較すること自体が、ひとつの物語にすぎない。こういう物語を内面化させて、資本は自己増殖を図って行くのである。かつてマルクスが疎外と呼んだ状況がよくわかる。」このように佐藤氏は能力主義の虚構性をつきだしています。

 

(こんにちの日本で能力主義は徹底されています。日本の資本家・経営者はリスキリングと称してデジタル技術を労働者に覚えさせ労働生産性を高めてより多くの剰余価値を搾取することを模索しています。能力主義が徹底化され「能力」を数値化して労働者相互を競いあわせています。その過程でついていけない労働者は能力がないとみなされ、「労働移動」=解雇・配置転換の対象にされます。「有能」とみなされた労働者のなかにもテクノストレスでメンタルヘルスの対象となる人も産み出されます。 

 資本家は労働生産性向上によってより少ない労働をもってより多くの生産物を手にしてそれを売って増殖した資本としての貨幣を獲得します。こうして無限に資本の自己増殖を追求するのです。生産過程において労働者は疎外された労働を強いられます。)

 

 佐藤氏はさらに乳癌がわかった後、医師に対する信頼感を失った勅使川原氏が、スピリチュアル整体師などにはまっていく姿もリアルに描かれていると共感しています。

 書評の次のパラグラフを引用します。

「評者はこの文章を大学病院の病室で書いている。評者は血液透析中だが血液に細菌が入り菌血症になり、緊急入院した。発見が遅れれば敗血症ショックを起こし、死んでいた可能性もあった。死が視界に入っている勅使川原氏の気持ちが人ごとのように思えなかった。」

 続けて書かれています。本の中に出てくる成長した娘さんが母を慰めています。<やっぱ母さんが弱いから、だけじゃないよ。ポイントは、医療という科学ではなく、非科学的なスピリチュアル整体師だけは『母さん』という個人をケアしてくれたこと。そのことこそが、母さんがそこまで心を奪われた一因なんじゃないかな?>

そして佐藤氏はまとめます。

能力主義も医療も人間の心と向き合うことを疎かにしている。伝統的に僧侶、牧師、祈祷師などが行っていた人間の心と向き合う姿勢を、21世紀の現代社会に合致した形態で取り戻す必要がある。」

 佐藤優氏のこの書評は21世紀文明批判の序説だと思いました。