[1197](寄稿)医療あれこれ(その79)ー1

ペンギンドクターより

その1

皆様
ずいぶん暖かくなりました。
 本日は、先日お話しました島薗進釈徹宗若松英輔・櫻井義秀・川島堅二・小原克博『徹底討論!問われる宗教と”カルト”』(NHK出版新書、2023年1月10日第1刷発行)の紹介です。この本はNHKEテレ「こころの時代」の昨年10月放送をまとめたものです。安部元首相に対する銃撃事件をきっかけとした「旧統一教会問題」のさなかに行なわれた座談会を収録したものです。表紙裏、裏表紙のコピーを記します。

 旧統一教会問題を契機として問われた宗教と”カルト”の問題は現在進行形であり、決して一過性のものではない。そして、「無宗教」を自称する人々にとっても他人事ではない。
 人を救うはずの宗教。”カルト”との境界はどこにあるのか。第一線にいる研究者・宗教者6人がその根源を見つめ、私たちが宗教リテラシーを身に付ける道筋を照らす。

 目次を示しますと、
 第Ⅰ部”カルト”問題の根源をさぐる
  第1章 ”カルト”とは何か?
  第2章 社会体制と宗教
  第3章 現代宗教の”歪み”とは
 第Ⅱ部 われわれは宗教とどう向き合うべきか
  第4章 宗教離れと宗教集団の”劣化”
  第5章 政治と宗教のゆくえ
  第6章 宗教の”公共性”とは
 
 広範な内容をまとめるのは難しく、一読を勧める他はないのですが、私自身の経験を以下のようにお話して上記の本の内容とはやや異なった私なりの宗教の意義をお伝えしたいと思います。
 ただし、ひとつだけ上記の本の中心人物である島薗進さんの言葉を紹介します。165頁から166頁です。

 私は1977年に設立されて間もない時期の筑波大学に研究員(文部技官)として就職したが、当時の筑波大学副学長であり、やがて学長となった物理学者の福田信之世界平和教授アカデミーの有力メンバーであり、『文鮮明・思想と統一運動』(1987年)、『21世紀の希望と統一運動 大学教授がみた世界救済への道』(1990年)などの著書がある人物である。哲学思想体系という人文系の組織に所属した私のような者にも、自由な言論を恐れるような雰囲気が感じられた。

 

 さて、私の宗教特に「宗教団体」に対する意義は、国家と個人をつなぐ、あるいは国家の個人に対する暴力的抑圧に抵抗する「中間団体」の位置づけです。
 
 私がH病院の院長をしていた2007年8月のことです。

 インドネシア人の60歳女性を診察しました。本人は日本語もうまく喋れない女性でしたが、教会の者だと言って「40歳ぐらいの日本語も上手な女性」が同伴していました。経過を省略して結論を言いますと、
 診断は「進行した大腸がん」「転移は検査上はなし」「本人の仕事は掃除を中心とした雑役」「保険には入っていないので自費診療」「滞在許可証、有効なパスポートなどはなし、つまり不法滞在者」でした。
 教会の職員という付添い者を介して、いろいろ話したところ、自費でいいから日本で手術治療をしたい、ついてはインドネシアの親族に土地を売ってお金を作ってもらい、そのお金を持って来日してもらうので、是非ここで手術してほしいとのことでした。私はすぐに了解して、事務長と相談し、保険点数上は総額110万ぐらいになるけれど、切りのいいところで、すべて込みで100万円にするからどうだと伝えたら、OKとのことでした。そこで外来で細かな検査はなしにして、すべて入院した上で検査、治療、手術、術後の対応もまとめることにしました。
 もちろんすべて順調に経過して、元気に退院しました。その後のことはわかりません。 

 インドネシアイスラム教の大国ですが、彼女の「教会」がイスラム教という雰囲気はありませんでした。どんな教会かを尋ねていませんが、異国の地で不法滞在者でありながら、相互に助け合う状況に、私なりに感銘を覚えたことは確かです。
 
 もう一つ、先日アメリカ在住の85歳の従姉の話をしましたが、彼女の宗教は「聖公会」です。聖公会というのは「イギリス国教会」のことです。彼女の高校の同級生にKという女性がいて、その父が聖公会の牧師だったようです。H市の聖公会は市役所の前あたりに小さな教会があったことを私も覚えています。彼女の夫は山口大学の血液内科の医局員で、アルバイトにH市のS病院に出張で来ていました。そこで私の母と知り合い、母が従姉とその医師を結びつけました。結婚式もその聖公会の教会で挙式したとのことでした。
 彼ら二人はアメリカに渡航して50年以上経過して、4年前にダンナは死んだわけですが、アメリカでの生活の背景には、聖公会が有形無形の援助を与えていたと想像できます。
 アメリカという国は、世界最大のキリスト教国でもあります。森本あんり『キリスト教でたどるアメリカ史』(角川ソフィア文庫、原本は2006年5月新教出版社で刊行されています)によると、全人口における「聖公会」の割合は1.3%です。彼女は今も敬虔なキリスト教徒(聖公会)であり、教会のボランティア活動として「認知症の患者さんの家族の代理としての介護」を週に一度務めています。彼らのアメリカでの暮らしに、聖公会イギリス国教会)のつながりが、役立ったことは、想像できます。
 
 以上、死の哲学としての宗教とは別に、共同体としての宗教団体の役割は大きなものだと私は思います。したがって、先の大戦大東亜戦争)において、西本願寺系団体が日本国家の先兵として「布教」に突き進んでいったことは、国家と一体化したという意味で、本来の宗教団体から逸脱しているように思います。
 また、敬虔なカルヴァン派キリスト教徒である佐藤優が、『池田大作研究』などの大冊を上梓し、創価学会の提灯持ちのような言動を示しているのは、決してキリスト教を放棄しているわけではなく、国家と個人との間の中間団体としての「創価学会」に期待するものがあると私は推測しています。なぜキリスト教系団体を基盤にしないのかと言えば、残念ながら日本の政治を左右するほどの力をキリスト教系団体は持っていないからです。創価学会世界宗教になりつつあるようです。ロシア・ウクライナ戦争の停戦に、宗教団体が多少の力を発揮できる日が来るかもしれません。ロシア正教プーチンべったりのように見えますが、さてどうでしょうか。言うまでもありませんが、私は佐藤優のように、創価学会を評価しているわけではありません。

つづく