ペンギンドクターより
その1
皆様
すっかり秋めいてきました。相変らず新型コロナ感染は少ないままですが、K市やH市には新規・濃厚接触者の感染がチラホラ継続しています。私も注意は怠っていません。少なくとも来年2月頃までは遠くへは出かけないことにしています。
コロナ禍の副産物は、近場の散歩と自宅にある本の読書でしょうか。
昨日は快晴なので川向うの村(遊水池)を歩いてきました。車で十分足らずです。遊水地は広大なヨシ原です。貸自転車で廻る人々が多いのですが、私たち夫婦は変哲もないヨシ原の中の道を磁石を持って歩きました。そこで雑草の「サクラタデ」の花を見つけ、写真に撮りました。実は樹木の花はほぼスマホの「花ノート」に収録したので、最近は雑草の花に凝っています。公園の散歩のときに写真に撮った小さな花を帰宅して図鑑で調べています。最近収録した花は以下のようになります。
サクラタデ、ホトトギス、ママコノシリヌグイ(茎に小さな棘があるので継子いじめに使われた?)、エノコログサ(別名ネコジャラシ)、イヌタデ(別名アカマンマ)、ツユクサ、マルバルコウ、シュウカイドウ、ヤブミョウガ、ヤブラン、センニンソウなどです。
イヌタデ(別名アカマンマ)は、気になっていた花です。そこら中にあるのでしょっちゅうお目にかかっていたのですが、名前を知らなかったのです。「プロレタリア作家」中野重治に次の詩があります。結構有名な詩です。
歌
お前は歌うな
お前は赤ままの花やとんぼの羽根を歌うな
風のささやきや女の髪の毛の匂いを歌うな
(以下略)
一方、堀辰雄の「幼年時代」だったか、幼友達の女の子との「ままごと」で「アカマンマ」が登場していて、どんな花なのか気になっていたのです。今回やはりそうだったかと図鑑で納得しました。
私が花ノートを雑草にまで拡張したのは、コロナなくしてはあり得なかったかもしれません。
さて、今回転送する伊沢二郎氏の主張ですが、彼がどんな職業の人かは知りません。以前からMRICには頻繁に登場しています。主張からみて、MRIC事務局の上昌広医師を絶対的に信奉しているようです。度が過ぎるように思えて、皆様には転送してきませんでした。以前から「感染症ムラ」という表現で、いわゆる「厚労省一派」を酷評しています。ただ、調査は広く深くしているようです。今回初めて取り上げたのは、新型コロナが沈静化してきたことにより、これが一時的なものかどうかはともかくとして、「コロナ後の医療体制」「コロナ後の政治経済対策」を本格的に考える必要があり、一般市民?の伊沢二郎氏のいささか乱暴な物言いも傾聴しておくかと考えた次第です。医療体制は厚労省抜きでは考えられませんから。
(編集者註:伊沢二郎氏の主張は次回載せます。)
ひとつ本を紹介します。
●村上陽一郎編『コロナ後の世界を生きる――私たちの提言』(2020年7月17日第1刷発行、岩波新書)です。まだ安倍政権の時に発売されています。
表紙裏のコピー文を記します。
新型コロナのパンデミックをうけて、私たちはどのような時代に突入するのか。私たちを待ち受けているのは、いかなる世界なのか。コロナ禍によって照らしだされた社会の現実、その深層にある課題など、いま何を考えるべきなのか。コロナ後の世界を生き抜くための指針を、各界の第一人者24名が提言する緊急出版。
24名の人びとは、岩波新書であることから、当然「革新系」が多いのですが、そうとは限らず面白いメンバーもいます。ヤマザキマリ、多和田葉子、ロバート・キャンベル、御厨貴、山口香、隈研吾、出口治明、藻谷浩介などなど。先ごろ亡くなった内橋克人さんも提言していました。
一番面白いと思ったのは、ロバート・キャンベル氏(国文学研究資料館館長。東京大学名誉教授。日本近世・近代文学専攻)の言葉です。当時麻生副総理が使った言葉で日本人の「民度」云々とあったことについてのコメントです。長いのですが引用します。
・・・・・・「民度」とは、1870年代の終わりから現れ、和製漢語と考えられる言葉です。20世紀初頭から「タミノチカラのホドアヒ」、「人民の文野又は貧富の度合」という具合に、日本語辞書に収録されます。以来、終戦にいたるまでは、アジア諸地域の経済状況や文化的に低い「度合い」を考慮しながら、日本の教育と法整備を適合させ、導入すべきだという文脈で使われることが多かったのです。また戦後でも、やはり自国と異なる人たちを能力の劣る下位に置くことで、自らが高みにあることを表現する差別的な文脈で使われることが度々見受けられます。おそれずに述べると、長い間、社会の中でくすぶり、幽霊のように死にきれない「民度」という一語は、今回も事象を多角的に検証しないといけないのに、曖昧な上に相手を疎外する言葉の「越えられない壁」として出現したのです。その背景には、分裂を煽ってはばからない、ここ数年間の世界的な傾向が働いているように思います。強さを強調するつもりが、かえって「向こう」にいる人々の不信を買い、損失を招きかねない例として考えるべきでしょう。・・・・・・。
さすが碩学キャンベル氏です。見事な言葉の分析です。麻生副総理自身にはごく自然に出てきた言葉なのでしょうが、日本語というのは歴史があり、その人の思想・信条を見事に表わしていると、キャンベル氏に教えられた感じです。私は別に外国人からどう見られるかを常に意識しているわけではありませんが、前回紹介したハヤカワノンフィクション文庫はすべて外国人が書いたものの訳書を購入して読みました。いずれ紹介するときもあるでしょう。また昭和史の勉強でも、半藤一利、保阪正康、加藤陽子・・・・・・なども読みますが、かなり多くのアメリカの日本史研究者の本を読んできました。なるほど、外国人はそう考えたのかと勉強になるからです。
新型コロナは世界中に蔓延しています。日本が沈静化しても、世界とつながっている以上、世界が沈静化しなければ安心できません。同時に「コロナ後の世界」を本気で考える時期でもあります。
ではまた