[1458]大本営発表と新聞記者

 

 12月3日の日経新聞「風紋」に太平洋戦争下の新聞記者の様子がリアルに書かれています。

 

大本営」の新聞記者たち

軍と一体、「聖戦」に沸く

 1941年12月10日夕。東京・霞が関にあった海軍省記者クラブ黒潮会」は興奮に包まれていた。

 始まったばかりの太平洋戦争で、海軍航空隊がさっそく英国の戦艦2隻を撃沈したという発表があったからだ。マレー沖海戦のハイライトである。

 2日前の開戦発表に続き、街に号外が飛びかった。人々は畳みかけるような戦果にいよいよ熱狂した。こうした「聖戦」を軍とともに喧伝(けんでん)し、ともに勝利に沸いたのは当時の新聞を中心とするメディアにほかならない。

 11日付の中外商業新報(日本経済新聞の前身)朝刊を見てみよう。「今ぞ称(とな)ふ〝無敵海軍〟」「七つの海の王座から英を追放の日」――。

 記事によれば、海軍報道部の平出英夫大佐が「高い調子で」発表文を読み上げるにつれ、記者たちから「わっ、すごい」「やったぞ!」「万歳万歳」などと声が上がった。記者は「耐へ切れない歓喜に鉛筆さへもかなぐり捨てた」。

 中外の新人記者だった岡田聰は著書「戦中・戦後」(76年刊)に回想を残している。「私は発表文を電話送稿したが、原稿用紙を持つ手も、読みあげる声もふるえっぱなしだった」

 読売新聞記者の小川力が書いた「大本営記者日記」によれば、8日朝から、黒潮会には急きょ加入するメンバーが殺到していた。大量の臨時電話が架設され、弁当が配達され、役所の玄関には原稿を運ぶオートバイがひしめいた。

 この本は42年刊。そんな戦争報道の現場風景を、リアルタイムであけすけにつづっている。

 マレー沖海戦の送稿が一段落すると、あちこちから「幹事、善政やれ!」の声が飛んだという。「善政」とはいまも残る業界用語で、懇親会など息抜きの行事を指す。「さうだ、ぜんせーいやれ」「軍艦一ぱいにウイスキー一本出せ」

 しかるのち、出前のすしが山のように運びこまれ、報道部の将校らが拍手を受けて入ってくる。記者団に囲まれてみな上機嫌だ。そしてまた「割れるやうな万歳」。軍当局とメディアとの二人三脚ぶりを如実に示す光景だろう。

 同じ時期に陸軍省記者クラブに在籍した読売記者の藤本弘道は、43年刊の「戦ふ大本営陸軍報道部」にこう記した。「大本営陸軍報道部と陸軍省記者会はとけあつて一体となり、主柱の一翼となつて、報道戦線を身をもつてかけまはつて努力してゐるのです」

 陸海軍の報道部が競うように「大本営発表」をぶち上げ、記者たちは数多くの「物語」をしたためた。やがて、戦局の分かれ目となるミッドウェー海戦。以後、ほとんどフェイクに近い情報が報じられていく。

 「しかし『大本営発表』は、太平洋戦争で突然あらわれたわけではない」と近現代史研究者の辻田真佐憲氏は指摘する。「日中戦争下で、すでに陸軍は記者クラブへの巧みな情報提供を試みていた。対応に遅れた海軍も平出大佐の着任で注目度を上げた。長い準備期間があったわけです」

 それなりの自由さを保っていたのに、じわじわと変質していった戦前昭和の新聞。「大本営発表」への迎合は、その悲しき帰結だったに違いない。メディア史の消えぬ教訓である。

(大島三緒)

 この教訓は戦時下の記憶として、叙述された「歴史」に繰り込まれてしまいました。

 「令和の新聞」にも政府発表への迎合姿勢が見られるのではないでしょうか。

「国際的環境の激変」という外的条件を日本の軍事力の強化の口実にする政府。日本のメディアは防衛のために戦争のできる国にしていくということを是とし、それを前提として自衛隊の敵基地攻撃能力の保持は専守防衛を越えているか否かという解釈議論をしています。

戦争は防衛を掲げてはじまります。

防衛戦争への傾動に危機感を持って「専守防衛』を批判する記事はなくなりました。

 パーティー券問題で岸田政権の支持率が下がり続けています。しかしアメリカとの軍事同盟のもとで日本の軍事大国化は急激に進められています。武器輸出の拡大に踏みきっており南西諸島への自衛隊のミサイル基地はすでに設置され民間空港を使った訓練は実施されました。反対運動の沈滞によって戦争準備は「粛々と」進められています。

 現在の日本の戦争準備体制の構築は、メディアによる日本防衛ムードの醸成による世論誘導が基礎となっていると思います。。