[1046]トラス首相辞任の背景ーーイギリスの看護労動者の現状 その2

編集者より

「イギリスの看護労動者の現状」の続きです。

 

3%の賃上げでは焼け石に水

 今回、ストライキ投票への引き金となったのが「3%の賃上げ」だ。イギリスでは毎年、国がNHS医療従事者の賃上げ率を決めるが、もともと低い賃金に3%を賃上げされても焼石に水だ。今のイギリスではベテラン看護師であっても、役職がなく、子どものいる家庭では、食べるだけで精一杯。組合も何度も窮状を国に訴えてきたが、変わらなかった。

 実際、このような環境だから看護師の退職者が全国規模で後を絶たない。

 昨年度の統計では看護師退職者のうち、高齢による退職は40%に過ぎず、残りの60%は45歳以下の看護師だった。4万7000人ほどの看護師不足が報告されているイギリスの看護は、本当に危機を迎えているのだ。

 こうしたことを受け、ここ数年、看護師の新規雇用と雇用維持の2本柱が大きな課題として掲げられてきた。だが、国がとった対策は「看護学部の入学試験の基準を下げて、イギリス国内の受験者数を増やす」「外国人看護師がイギリスで免許を取りやすくするために、英語テストのハードルを下げる」というもの。仕事の魅力ややりがいをアピールして志願者を増やすのではなく、「応募基準を下げる」ことで雇用をまかなおうとしているのだ。

 もっとも雇用維持については何も回答が出ていない。国の姿勢からして、待遇改善に前向きであるとはとても思えない。そんなことで、過去10年にわたって辛抱してきた看護師も、我慢の限界を越えてしまった。

 もちろん、イギリスの看護師にも「栄華」と呼べる時代が存在した。2008年のリーマンショック以降も、2010年代前半まではここまでひどい待遇ではなかった。

 不況で就職難になると、日本では公務員を希望する学生が増えるが、イギリスでは看護師を志望する人が激増した。現役の高校生に加え、社会人大学生、特に主婦層からの応募が殺到して、看護学部は一躍狭き門となった。余談だか、私も2009年にその狭き門をくぐり抜けた一人である。2010年の受験はさらに競争が激化し、「今年の新入学生は稀に見るアカデミック集団だ」と、大学教員も講義中に度々口にしていた。

 看護学部が人気だった理由は、授業料が無料で無償の奨学金が毎月5万円ほど支給されていたからだ。これは看護師を育成して確保することが国策とされ、予算確保も優先的にされていたためで、無償だからこそ競争が生まれ、優秀な看護学生を確保できた。

 就職も厳しい競争にさらされ、完全な買い手市場だった。特に新卒看護師の就職は厳しく、大学を卒業して免許が取れてもしばらくは就職ができず、スーパーでアルバイトをしながら就職活動を続ける先輩たちを何人も見てきた。大学側もワークショップを開き、履歴書の書き方、面接の受け方などの訓練を学生に受けさせていた。

 すべてが変わったのが2010年に発表された、リーマンショック以降の不況による公共部門の職員の賃上げ凍結だ。以降2年間は看護師の昇給はなく、その後は毎年1%の賃上げが決定された。この間のインフレ率は1%以上であり、年数が経つほど看護師の所得は目減りしていった。1%の賃上げは2017年まで続いた。

 


買い手市場が一転、看護師不足に

 あれほど買い手市場であったのに、看護師不足になるまでそう時間はかからなかった。2013年を過ぎたあたりからEU各国から看護師を大量に受け入れ、なんとか看護師不足をしのいでいた。しかし2016年イギリスはEUを離脱。これにより、EU諸国の看護師は競うように母国に帰っていった。

 とどめが2017年からの看護学生の授業料無料、ならびに奨学金の完全廃止だ。

 これにより看護学生も他の学部生と同じように学費を支払うことになった。看護師育成のための礎ともいわれた授業料無償策に、国は手をつけてしまった。もはや看護師は主婦や低所得家庭の学生に進学と就職のチャンスを与える魅力的な仕事ではなくなり、看護学部を志願する学生は以降、減少の一途をたどる。

 必然的に看護師のなり手も減少。コロナ医療従事者に「危険手当、ボーナスの支給なし」の国の決定も多くの看護師を退職に向かわせた。そして、これ以降、国の方針は待遇改善して看護師を増やすより、「この待遇でも志願してくる」外国人看護師のリクルートに舵は切られていった。

 トラス首相を第2のマーガレット・サッチャーと呼ぶ人もいる。80年代に主に活躍したサッチャー首相は「公営から民営に」を公言し、実現していった首相だ。

 コロナ以降、NHSの待機手術の待ち期間はさらに長くなり、プライベート病院での手術件数が増加している。統計ではウェールズではコロナ前に比べ、プライベート診療の患者数が114%となり、イングランド中部のミッドランド地方では76%の増加が記録されている。

 私の勤務先でも、患者からプライベート医療に移るために紹介状を書いてほしいという依頼が増えたと感じる。これは国が意図したものか、結果的になったものかはわからないが、プライベート診療の増加は明らかだ。

 看護師のストライキ投票の結果がわかるのは11月2日以降。投票に至った経緯を無視してはいけない。ストライキが実施されればイギリス医療が大打撃を受けることは必須で、政権に与えるダメージも小さくないだろう。

 今までのイギリス首相とは違い、真摯にNHS医療と看護師の未来を考えてくれることを、トラス首相には期待したい。

著者∶ピネガー 由紀 

以上。

私の意見∶

 このレポートが書かれた日、トラス首相は辞任、イギリスの政局は混乱しています。たとえ混乱が一時的に収拾されたとしても物価値上げと低賃金により労働者階級の生活危機は一朝一夕に解決するものではありません。

 日本の状況もイギリスと同様、円安の中で物価値上げが収まる気配はありません。賃上げ闘争も自制的であり、5%賃上げ要求にたいして経団連は否定的な姿勢を打ち出しました。

 21世紀現代世界は新型コロナ危機を脱してはいません。ウクライナ危機も泥沼化しており、新東西対立はエスカレートしています。

 現代世界の逼迫はこれまでにないものです。危機を乗りこえる力を集めることが問われています。