[1449]中小企業の生産性 産学協同で改善

28日の日経新聞1面トップは次のような見出しです。

「中小の生産性、産学で改善 自動化ロボ投資促す」

 私が若い頃には多くの大学で「産学協同路線反対」が語られましたが、何の抵抗もなくこういう記事が書かれる時代になったと感じます。記事の見出しは労働生産性向上のために産学協同で労働手段としてのロボットを開発するということです。経営者はロボット導入のための投資よりも多くの利潤を生みだすことが見込まれる(機械導入の資本家的限界)なら生産過程にロボットを導入します。経営者は、生産過程にロボットを導入することを通じて人員削減や労働生産性向上をめざしましす。

 「産学協同」という考え方は端的に言うならば労働生産性を向上させるために大学は寄与すべきであり、戦争の時代になっている今、兵器開発・生産技術を高度化するために教育研究に励むべきであるということです。産学協同の考え方は大学・学問は国家・産業のためにつくす労働力を育成するためにあるという思想だと思います。実利を生まない哲学や文学は軽んじられます。大学の予算配分にもそれはあらわれています。

日経新聞記事のはじめを引用します。

 中小企業の生産性改善に向けて産学が連携する。ファナックデンソーなどと国内大学が連携して、最大6割安く産業用ロボット(総合2面きょうのことば)を導入できるシステムを開発する。2024年に運用を開始する。国内企業数の99.7%を占める中小企業の低い生産性は経済成長の足かせになっており、投資を促す仕組みを整えることで経済全体を底上げする。

 中小企業の生産性は大企業より低い。23年版の中小企業白書によれば、製品やサービスが持っている価値にどれほど新たな価値を加えたかを示す従業員1人あたりの付加価値は、製造業で中小企業が542万円と大企業(1460万円)の3分の1程度にとどまる。

 省力化や合理化で生産性を上向かせる取り組みが必要だ。ただ、規模が小さい中小にとって設備投資の負担は重い。」

以上引用

 そこでロボット投資の負担を軽減するために、ファナックデンソーなどいくつかの企業が技術研究組合「ROBOCIP」をつくって、東京大学と協同して新システムを開発しはじめています。

 なぜこれまで産学協同が批判されてきたのかふりかえる必要があると思います。

次に紹介するのは社会学者の加藤秀俊氏の意見です。一部を抜粋します。

産学協同の明暗

発行年月: 20060630 掲載 : 21世紀フォーラム 第109・110合併号2008年3 発行元 : (財)政策科学研究所

産学協同の明暗  加藤秀俊

一、反対闘争

 わたしが学生だったころ、つまり一九五〇年代から一九七〇年代の学園紛争の時代まで「産学協同」ということばはつねに否定的な意味をもっていた。産業界と大学とが協力関係をもつのは無条件的に「悪」だったのである。 なぜか。それはそもそも大学というところは「真理の探究」のための神聖な学問の場でり、それにたいして産業界というのは資本主義の原理のもと、もっぱら金儲けを目的とする世俗の世界である。このふたつは水と油のようなもので、その目的から活動内容まで、まったくちがったものだ。だから、このふたつが「協同」するなどということはとうてい許せない、というのである。 そういう「協同」がちょうどこの時代に顔をのぞかせはじめていた。まず、産業界は研究開発から製造の現場にいたるまで、優秀な人材を必要としはじめていた。学生たちはどっちみち卒業すれば会社に就職する。しかし、大学は難解なこと、すくなくとも浮き世離れした教育をおこなっている。そんな大卒を採用したって、どうにも役に立たない。産業界で「使い物」になるような人材養成をしてくれ、と企業はそれとなく大学に注文をつけた。 それが怪しからぬ、と大学人がいいはじめた。「真理」に殉ずる教授たちが声をあげて産業界を非難し、学生もそれにくっついて「産学協同反対」というスローガンをかかげた。左翼用語をつかえば「大学は資本主義イデオロギーと労働力再生産工場として大量の中・上級産業予備軍を排出させ、それに伴う再編過程における矛盾を胚胎させる」というわけ。 わかりやすくいうなら「産学協同路線」というのは産業、とりわけ大企業と大学が結び付いて、大学を卒業したら、すぐに産業界に即応できるような「企業戦士」になれるような学生を生み出そうとしはじめたということだ。「学問」は「善」であり、資本主義に支配される「社会」は「悪」なのである。だから、産学協同などというのはそれじたい矛盾だ、ということになる。

 わたしなども多少は学生運動に関係していたから、「純粋」な学問を守るためには国家資本主義とは徹底的に戦わなければならない、とおもっていた時期があった。しかし、やがてそれがまことに滑稽なことだ、ということに気がついた。それというのも、産学協同を口にしていた同級生が続々と銀行、商社、その他もろもろの企業に就職し、サラリーマンになってしまったからである。当時のわれわれのことばでいえば企業人になるということは「資本主義の走狗」の仲間入りする、ということにほかならず、就職ということじたいが産学協同反対闘争にたいする裏切り行為を意味したからであった。 だが、ふしぎなことに、理論的にみて産学協同が怪しからぬことであっても、現実的には大卒の人間は資本主義体制のなかに組み込まれてゆく以外になかったのである。きのうまで赤旗をかかげて産学協同反対、と叫んでいた大学生は卒業と同時にスーツに身をかためて勤勉な「企業戦士」に変身してしまったのである。  これには事情があった。それというのも、わたしなどの世代では大学進学率は10%以下で、大学を卒業した人間のかなりの部分はそのまま大学にのこって学者になるか、あるいは官庁に職をえて役人になるか、という人生をえらんでいたからである。とりわけ国立大学ではそれがふつうであった。 ところがこの時代、とくに大学制度が「旧制」から「新制」に移行した1953年あたりから大学が増加し、大学進学率が右肩上がりで上昇した。毎年、百万人もの大卒が誕生したのだから「国家資本主義反対」などと間の抜けたことをいっていてもしかたがない。社会的現実からいえば大学は資本主義体制の一部になっていたのである。 そればかりではない。このころから大学への企業からの委託研究や研究費の寄付などがはじまっていた。とりわけ技術革新のはげしい分野では企業が優秀な頭脳を必要としていた。だから新薬の開発をもとめて製薬会社は薬学部、医学部などと協同作業をはじめる。電気関係の会社は機械や電子工学の分野で大学の理学部、工学部に協力を要請する。大学のがわからみれば、研究費は慢性的に不足しているから、企業からおカネが流れてくればこんなありがたいことはない。こうした資金提供による「産学協同」は理学、工学、医学などの大学や学部にどんどん流入しはじめていた。 これも左翼の学生運動からみれば排除すべき傾向であった。大学があたらしい電子技術や土木技術などを関連する大企業に提供する、というのはカネ儲けの手伝いをするということであるから、そういう「汚い」ことは断固中止すべきだ、と活動家たちは訴えた。アメリカの財団などからの研究援助などは「アメリカ帝国主義」への「従属」以外のなにものでもなく、したがってそんなものは徹底粉砕せよ、ということになった。学生だけではない。大学の教職員組合も反対運動に参加した。 いや、わたしのみるところ、日本の学生運動というのは根本的には大学の「純粋性」を社会という名の「悪」から守ることにあった。洋の東西を問わず、大学という場は教会や寺社のような宗教施設を母体にしてできあがった「聖なる」場所である。それは世俗から完全に切断されていなければならない、と大学人たちはかんがえていたのだ。

以上引用

 この文章をインターネットで偶然見つけて読んだ私は懐かしい気持ちになりました。加藤氏の意見の正否はともかく多くの考えるべきことは提示されています。