[1578] 『ゼロからの資本論』ー6

人間の労働は何が特殊か
 次に地球上の生き物も自然との物質代謝を行なっているが、「けれども、人間とほかの生き物との間には決定的な違いがある、とマルクスは言います。それは、人間だけが、明確な目的を持った、意識的な『労働』を介して自然との物質代謝を行なっているという違いです。」と斎藤は言います。
 斎藤はこれを「人間は単に本能に従って、自然とかかわっているのではありません。本能的な欲求を満たすための工夫はほかの動物でも行います。」と説明します。自然とのかかわりあいが本能的かどうかということが人間と動物の違いだということです。人間だけが本能的な欲求を満たす以外の目的のために自然に働きかけることができる。確かに斎藤は間違っているわけではありませんが、マルクスは人間の自然への働きかけの独自性を本能的な目的にもとづいているか否かという意味で述べてはいません。
 マルクスは『資本論』第五章第一節「労働過程」で次のように言います。
 「蜘蛛は織匠のそれに似た作業をなし、蜜蜂はその蝋房の構造によって、多くの人間の建築師を顔色なからしめる。しかし、最悪の建築師でも、もとより最良の密蜂にまさるわけは、建築師が密房を蝋で築く前に、すでに頭の中にそれを築いているということである。労働過程の終わりには、その初めに労働者の表象にあり、したがってすでに観念的には存在していた結果が、出てくるのである。彼は自然的なものの形態変化のみを引起すのではない。彼は自然的なもののうちに、同時に、彼の目的を実現するのである。彼が知っており、法則として彼の行動の仕方を規定し、彼がその意志を従属させなければならない目的を、実現するのである。」(岩波文庫 向坂逸郎マルクス資本論』(二)10頁)
 労働者が労働対象を加工=変革する際に、労働対象に自身の労働力とともに意識のなかに形成された目的を対象化するということです。これが動物の「労働」と人間労働の決定的な違いです。
 斎藤が言うように、人間は確かに「よりきれいな服を作る」という目的のために、染料で服を染めたりします。あるいは土器なら、食事をするための器があれば事足りそうですが、催事や芸術など本能的な欲求を満たす以外の目的のために人形を作ったりしてきました。「人間だけがほかの生き物よりもはるかに多様でダイナミックな〝自然への働きかけ〟ができるのです。」人間は食べるためだけではなく、自然への働きかけにおいて意識の中に生じる喜怒哀楽を絵や音楽、言葉などで表現します。しかしそれは実践に多様性があるということであって、人間労働そのものにおける目的意識性という問題とは次元が違います。
 人間労働の独自性に関する把握の位相のズレがこれ以降の理論展開にどのように影響するかここではまだわかりません。

つづく