[1574]『ゼロからの資本論』ーその4

 

第1章「商品」に振り回される私たち

南の島の漁師の小噺

 冒頭で「都会であくせく働く人と南の島の漁師の小噺」を紹介して斎藤は次のようにいう。
「私たちはいったい何のために、毎日つらい思いをしてこんなにたくさん働いているのでしょうか。」
「もちろん、今の仕事が大好きで、待遇や労働条件に満足している人もいるでしょう。そんなあなたはとてもラッキーです。だって、少し周りを見渡せば、仕事に不満や苦痛を感じている人を見つけるのは簡単なはず。パートの配偶者や非正規雇用の同僚にも、そんな人たちがいるかもしれません。」

 斎藤は本文のはじめに労働する諸個人を対象にして日常の仕事にかんする体験的事実について語り、読者のなかに『資本論』に向かう必然性を呼び起こそうとしているのでしょう。仕事に不満や苦痛を感じている人がいることの背景に「階級」対立の問題を見るが、ここでは本書の展開に通底するであろう資本主義の問題性への伏線的問題提起として措くにとどめています。
 斎藤はオルガナイザーとして意識的に読者に働きかけていると思います。

「とはいえ、いきなり階級の違いを強調するよりも、まずは私たちの間の大きな共通点に注目していきましょう。漁師も、サラリーマンも、みんな生きるために働いているわけです。」

 

 マルクスも『クーゲルマンへの手紙』や『ドイツイデオロギー』で次のように言います。
「一年と言わず、数週間でも、労働が停止されたなら、いかなる国民もみんな死んでしまうだろうことは、どんな子供もよく知っている」(『クーゲルマンへの手紙』)「たえざる感性的な労働と創造、この生産こそが、まったく現に存在しているような全感性的世界の基礎である」(『ドイツイデオロギー』)

 私もそう思います。労働によって生活手段や生産手段を生産するというのは、どんな社会であっても生活の基礎です。
 私たちの現在の生活と人間の歴史と史的唯物論の論理的出発点は人間生活の物質的生産にあります。それは人間労働によって実現されます。いま資本主義社会の中でも私たち労働者は生きるためには労働力を資本家に売って資本家の監視のもとでものやサービスを生産しなければなりません。農漁業者も働いて作物をつくったり魚を獲ったりしなければなりません。生産物は基本的にすべて商品化され流通過程で売買され消費者によって消費されます。

 斎藤は「そこでまずは、私たちが毎日行っている『労働』という行為について考えることを通じて、徐々に資本主義に迫っていきましょう。」と呼びかけています。

つづく