[1577]『ゼロからの資本論』ーその5

「物質代謝」としての労働

 斎藤の文章に入る前に確認しておきます。
 マルクスは『資本論』「第三篇絶対的剰余価値の生産 第五章 労働過程と価値増殖過程 第一節 労働過程」で「使用価値または財の生産は、それが資本家のために資本家の統制のもとで行われることによっては、その一般的本性を変じはしない。だから労働過程は、さしあたり、どの規定された社会的形態にも係わりなくなく考察されるべきである。」(青木書店版『資本論』1 329頁)
 

 私たちは資本主義社会では資本家・経営者に雇用され生産過程で協同労働をしています。労働者は他の労働者と労働関係をとりむすびつつ労働対象への働きかけを行っています。労働について考える場合に私たちは複数の労働者による統合体の労働対象への働きかけと労働者間の相互の働きかけを一挙に同時に論じることはできません。だから労働することを理論的に考えるためには協同労働から人間と自然の関係を抽象することが必要です。

 また資本制的労働はものを生産するだけではなくサービスをも生産します。労働対象の違いによって労働の種類も様々であり、質も違います。これらはそれぞれ分けて論じなければなりません。したがって労働という行為を考えるためには論じる対象を論理的に限定して論じなければなりません。

「『労働』という行為」とは資本制生産の資本制という規定性を捨象し人間の対象的自然への働きかけという関係に論理的に限定して考えなければなりません。つまり「労働一般」について考えていくということです。
 以上のことを踏まえて斎藤の意見を考えます。

「人間は、他の生き物と同様に、絶えず自然に働きかけ、様々な物を生み出しながら、この地球上で生を営んできました。家、洋服、食べ物を得るために、人間は積極的に自然に働きかけ、その姿を変容し、みずからの欲求を満たしていきます。こうした自然と人間との相互作用を、マルクスは生理学の用語を用いて、『自然と人間との物質代謝』と呼びました。」

 マルクスは元来、化学・生理学の用語である物質代謝という考え方を『資本論』に取りいれ〈人間と自然との関係性〉を分析したと斎藤は言います。そして次のように言います。
マルクスが、『資本論』に託したメッセージの核心に迫るうえで、この概念はとても重要です。本書は、物質代謝論を土台として、『資本論』を読み進めていくと言っても過言ではありません。それは、私がマルクスにならって、労働という行為を重視しているからです。
 というのも、人間が自然との物質代謝を規制し制御する行為が『労働』なのです。例えば、『資本論』第1巻の第5章第一節『労働過程』で、マルクスは次のように『労働』を規定しています。

「労働は、まずもって、人間と自然のあいだの一過程、すなわち、人間が自然との物質代謝を自らの行為によって媒介し、規制し、制御する一過程である。」

 斎藤は上の『資本論』の引用を受けて次のように言います。
「『労働』といえば労働者の搾取の話だ、などと思っていると、こういった箇所を見逃してしまうかもしれません。でも、搾取はまだ先の話。ここでマルクスは、もっと一般的な話をしていて、労働と物質代謝が切り離せないことを指摘しています。
 実際、都市で暮らしていると忘れてしまいがちですが、インスタントラーメンもパソコンも、自然に働きかけることなしに作ることはできません。自然との物質代謝は人間の生活にとって『永遠の自然的条件』だと、マルクスは述べています。」
 
 マルクスは「労働過程は、使用価値を作り出すための目的に合致した活動であり、人間の欲望のための自然的なものの取得であり、人間と自然との物質代謝の一般的条件であり、人間生活の永久の自然的条件」(向坂逸郎岩波文庫版(二)19頁)であると書いています。
 斎藤の展開では「物質代謝」を主語として「自然との物質代謝は人間の生活にとって『永遠の自然的条件』だとマルクスは述べているとまとめられています。マルクスは「労働過程」を主語にして「労働過程は……人間と自然との物質代謝の一般的条件であり、人間生活の永久の(永遠の)自然条件」であると言っています。
 斎藤は物質代謝を労働過程との関係において論じており、マルクスは労働過程を物質代謝との関係において論じている。このちがいが後の展開にどのように影響するかいまはわかりません。
 労働過程は人間と自然との物質代謝の一般的条件だと言うマルクスの展開にふまえるならば、労働過程は自然と人間との物質代謝の社会的形態と言っていいでしょう。

 斎藤は「……自然との物質代謝は人間の生活にとって『永遠の自然的条件』だと、マルクスは述べています。」につづけて言います。「つまり、どれほど技術が発展したとしても、私たちはけっして、自然との物質代謝を離れて生きることができず、その限りで労働もなくならない、ということです。」
 この一文はわかり難いです。
 ここで使われている「技術」という概念は労働過程において労働手段となるものをさしているのでしょう、物理学者武谷三男は『技術論』のなかで「技術とは生産的実践における客観的法則性の意識的適用である」と述べました。技術は、実践概念であり、労働過程においてその諸契機(労働者・労働手段・労働対象)となるものの交互作用のうちに現象するものです。確かに労働手段は自然物をそのまま労働手段として利用する場合をのぞいて、生産的実践の産物であり、技術の一つの現象形態ですが、技術という概念を労働手段となるものに実在化するのは誤りです。
 斎藤がここで言いたいことは、労働手段がどれほど技術化(たとえばAI化)されても、自然との物質代謝として意義をもつ労働過程は人間生活の永遠の自然的条件であるということでしょう。
「その限りで労働もなくならない、ということです。」というフレーズは少しわかり難いのですが、AIが改良されて労働過程が自動化されていくとAIが人間の労働の代わりをするように見えるという仮象がうみだされます。斎藤は究極的なAIは人間労働にとってかわると思っているのでしょうか。

つづく