[1617]哲学者 長谷川宏インタビューを読んでー3 60年安保のあと

 60年安保闘争は敗北しました。闘争のあとも長谷川はビラ配りなどを続け、闘争の地方波及を求めて島根に帰ったりもしたそうです。

5月3日朝日新聞「語る」シリーズ連載5回目から抜粋します。

ヘーゲルに挑み、「学問とは」葛藤  《日米安保条約の改定後、反対闘争の評価で議論が起きた》

「敗北には違いない。でも多くの市民が国会に結集した事実を軽んじてはならないと思いました。納得できなかったのは、格好よく演説していた全学連の幹部が運動継続は時代遅れと言わんばかりの冷笑的な態度を示したこと。地道な闘いを持続すべきではないのか。僕は結構まじめに、ビラ配りなどを続けた。」〉

 全学連のリーダーたちは60年安保ブント(共産主義者同盟)という組織をつくり、学生運動先駆性理論(学生が革命運動の先頭でたたかい、学生の流す血を見て労働者は決起するであろう)を掲げてたたかいましたが、運動は敗北し「壮大なゼロ」とメディアに揶揄されました。一部のリーダーは「虎は死んで皮を残す。ブントは死んで名を残す」というすかした迷言を残して運動から離れました。学生活動家のなかにはマルクス主義学生同盟に合流した活動家もいましたが······。その後学生運動、労働運動は60年安保闘争の総括をめぐって論争し教訓化の努力を重ねて70年安保闘争に向かって進んでいきました。

 長谷川はキャンパスに戻り学問に打ちこみ卒論をサルトルで書き、大学院でヘーゲルを学びました。

 彼は大哲学者と向き合ううちに自分に疑問を持ったそうです。研究室で教授の顔をうかがい、突っ込んだ議論もなく、普通の人々から遊離した現実感覚のなさにも悩んだそうです。私はヘーゲル哲学の研究室にこもったことがなく、そこまでの気持ちになるほど勉強してみたいものだと思いますが、ヘーゲルの書いたものを毎日のように読んでいたらひょっとしてそういう気持ちになるのかもしれません。

 長谷川はあるとき、何人かの教授になんのための哲学か尋ねてみたといいます。答えは「よけいなことは考えず、懸命に勉強することだね」と言われたそうです。

 よけいなことではなく、私はヘーゲルにかぎらず、なんのための哲学かを問いつつ考えることが哲学することではないかと思います。

 長谷川は、自分はなぜ学問の道を歩むのか父と手紙のやりとりをしたそうです。応えてくれたお父さんはすごいです。

(私は1969年の大学闘争で教授会から停学処分を受けました。それでもなおたたかうのはなぜか両親に訴えましたが、父は黙し、母は「あん゙たの言うことは正しいが、世間では通らないよ」と泣いて諭されたものです。

 生きる姿勢は理解してくれましたが、時代に抗う営為に将来を案じ軌道をかえよと諭してくれたのでした。両親の話と様子を前にして私も悩み考えました。)

 長谷川は葛藤しながら学問を続け、1968年の東大闘争に直面します。

つづく