[1549]『なるようになる。僕はこんなふうに生きてきた』 その2

『なるようになる』96頁

「大学紛争で研究室閉鎖」

 養老さんは全共闘の学生から、日常生活と有機的関連のない学問はいらないと言われたと受け止め、解剖の意義を考えたと言います。

「東大で紛争が起きたのは、助手になって二年目だったか、1968年でした。······僕も経験した無給の研修医制度に問題があったことは確かで、団塊の世代の学生の言い分はわかったけれど、みんなで団子になってやる姿勢は違うと思った。······

 僕は助手だから既に体制に組み込まれている。でも、教授会には出られず、決定権は何もないから要するに本当の中立。どっちから見ても、どうでもいいというグループだった。

 それがある日、赤門を入って突き当りにある医学部本館二階の解剖学研究室に、ゲバ棒を持ったのが二、三十人、覆面をして乱入し『外に出ろ」って言う。しょうがないから出たら、今度は『もう入るな』ーー。研究室は一年以上、封鎖されました。『 俺たちが懸命に戦っているとき、お前ら、のんびり研究なんかしやがって』というのが封鎖にきた学生の言い分だった。······」

この時期と出来事は団塊の世代の私の青春と重なります。  

 東大に機動隊が導入されたあとでしたが私は地方の一大学の学生自治会運動に参加しました。7月の学生大会の日でした。サッカー部の練習に誰も来なくなり仕方なくユニフォームとサッカースパイクシューズのままの格好でガチガチ音を立てて大会が行われている大講堂にいきました。熱気がすごく全共闘系(反執行部系)と自治会執行部の論争に魅きこまれました。

 医局講座制打破や政府の大学管理法案反対、学生自治会活動への当局の規制強化反対の闘争方針をめぐって議論沸騰。8割以上の学生が参加した大衆団交。そして教授会の大衆団交確認書破棄。それに抗議した学生大会決定を通じた全学バリケードストライキ。多くの院生、助手、講師、助教授、青医連の人たちが連帯してストライキをおこないました。

 私はバリケードづくりに参加。研究室を訪ねて先生方に部屋の明け渡しをお願いして回りました。養老先生のところに行った学生たちほど戦闘的ではありませんでしたが、やったことは同じです。但し相手の対応がやや違いました。ドイツ語と哲学のK先生は「このコーヒー飲んでもいいですよ」と言ってインスタントコーヒーを置いていってくれました。学生の意見に理解があったのでしょう。

 私は東大の全共闘に批判はあり、同じではありませんがまあ行動形態は似たようなものでした。

 

 私は当時学問の意義を問うほどの学徒とは到底言えませんでした。フォーククルセイダーズの歌にあった「悲しくって悲しくてとてもやりきれない、このやるせないもやもやを誰かに告げようか」という歌詞に共鳴する学生でした。闘いに参加してもやもやが晴れはじめた私が、私なりに自分と同世代の学生に問うたのは、大学当局が学生自治会活動を規制するのはなぜかということであり、大学とは何かということ、そこから思索がはじまリました。正しいことが間違ったこととされ間違ったことが正しいこととされる転倒した現代社会と私自身について、自分と友人に語りかけることでした。養老さんが自身に問われたと思ったことにたいする真摯な姿勢に私は共感するのです。

 


今日はここまで、つづく。