[1587]ヘーゲル精神現象学の序論

 私も本棚からヘーゲルの『精神現象学』を探して久しぶりに「序論」を読みました。30代半ば、当時の勉強会で私の活動レポートを読んだ先生から「あんたはヘーゲル主義だ、ヘーゲルが泣くけど」と言われ、ヘーゲルなんかほとんど読んだことないのにヘーゲル主義とはなんだ!と思って少し読みました。

 ヘーゲルは概念が現実をうみだすと言っているようだ、ということはなんとなく理解できましたが、途中まで読んで挫折しました。その後認識論を考えるようになって、唯物論における裏返しのヘーゲル主義などについて学びましたが、ヘーゲルの著書は不勉強のままです。

 一つだけいまだに記憶に残っているフレーズがあります。今、手元に平凡社の『精神現象学』(樫山欽四郎訳)があるので「序論」「学的認識について」の当該箇所を引用します。

「哲学的著作の眼目は、その目的と帰結以外のどこにより多く言い表されうるのか、••••••事柄は目的の中でくみつくされるものではなく、その実現のなかでくみつくされるものだからであり、また結果は、現実の全体ではなく、全体の生成と一緒になるとき、現実の全体であるからである。目的はそれだけでは生命のない一般者である。それは、傾向がただの活動にすぎず、いまだ現実性を欠いているのと同じである。そしてむき出しの結果は、傾向を捨て去った屍である。」

 うまく説明できませんが、事柄を学的に認識するということは、その目的の中にくみつくされるものではなく、事柄が生成される必然性とその中に定立された目的とそれの実現過程を主体的に認識することだということでしょうか。

なんとなくわかりますが難解です。

 当時私がこのフレーズに触れたのは梯明秀の労作『ヘーゲル哲学と資本論』でした。私は梯先生の哲学に共鳴し勉強しました。

 けれども梯による引用文は樫山訳とは違うものでした。何だかもっとなるほどと思わせるような訳だったような気がします。一番気に入ったのは「むき出しの結果は、傾向を背後に残した屍である。」という一文だったと思います。

 探してみます。

 ありました。

ヘーゲル哲学と資本論』(梯明秀 18頁〜19頁)より

「或る哲学的著作の核心は、その諸々の目的および結果におけるよりも、より以上に如何なる点において言明されるべきか。

 この問題にふくまれる事柄は、その目的のうちに尽くされているのではなくて、その実現のうちに尽くされており、結果もまた、現実的なる全体ではなくして、その成立過程を併せて現実的な全体であるからである。傾向がいまだ現実を欠ける単なる生長であると同じように、目的はそれだけでは生命なき一般者であり、そして、むき出しの結果は傾向を背後にのこした屍である。註2」

(註2 ヘーゲル精神現象学』「序文」岩波版上巻3頁)

 どうでしょうか。こちらの訳が私は分りいいです。ヘーゲルの文は動的だと思います。

 パラフレーズすれば、哲学的著作の核心は、その目的や結果のうちにあるのではなくその目的の実現のうちに尽くされている。結果もその成立過程をあわせて認識して現実的な全体として把握されなければならない。結果は過程なくして実現されない。目的の実現過程は結果にとって傾向でありいまだ現実を欠ける単なる生長である。過程の傾向と同じように、実現過程におかれない目的は生命のない一般者に過ぎない。目的が現実化される過程の「傾向」が畳みこまれ止揚され結果となる。結果はその中に畳まれた「傾向」の終局であり、結果には、その前駆体としての動きを失った死んだ「傾向」が堆積しているがその痕跡は消えて見ることができない。それが「むき出しの結果は傾向を背後に残した屍である」というまとめの謂いです。

 ヘーゲル精神現象学』を精神的労働の論理としてとらえかえしたといわれているマルクス的論理ーー私の理解するそれーーから解釈しかえしてみましたがまちがっているかもしれません。

 それはともかく、私も勉強します。