[131]戦中と戦後 ある若者の日記

f:id:new-corona-kiki:20200818053844j:plain

「〔129〕終戦記念日に思う」の続きです。

 紹介する三つの文は、戦争末期と戦後三年目に私の叔母が書いた日記です。叔母は戦時中脊髄カリエスを患い、戦争が終わって数年後に亡くなりました。病が感染するのをおそれ、小さな私を抱き上げもせず少し離れて声をかけてくれた姿を朧に憶えています。
 


昭和20年5月(22歳)

 
 五月


現実は常にきびしい。ようしゃしない。

時局はきびしく、私の心はいつもなにかを考る。

夢だけで、ただ頭だけの幸せでは人間は、やっぱり満足出来ないのだろうか。

何か きれいなもの を 見つめたい たえられない様子 この日頃

美しいものに あこがれる。

なにか、心を洗濯して 呉れる様なものに、ふれたい。

きびしい時代なればなるだけ、よけいに、私たちの、とぎすまされた心に、

こんこんと つきない深いものを 求めている。

たまらなく淋しい

美しく生きることが何か、清らかさが何か、 いい加減なのが楽だろうに。

冷たさ、皮肉、

頭の良い証拠にはなるかもしれないが 心の暖かい 証拠にはならない。

心あたたかな生活にあこがれる。こんなとき、きまって心美しい北国の 先生にお逢いして、お話ししたいと思ふ。御人格にふれたいと思ふ。

自分の心を 大切にしなければならない。

どんな時局も

常に、二つの解釋の仕方がある。私たちの心の目に、
色眼鏡をかけて見れば、青は青 赤は赤

〝人を相手とせず、 神を相手とせよ〟

自分の心に恥じない 行動であれば、いいのだ。

身体の調子が悪く、心浮かばず


(無題)

ニュースや新聞で戦況をきく度に

私は 本当に 一番 どうすれば

いいのだろうかと ぢっとしてゐられない様な

気がする

息が つまりそうな 緊張の中に 昨日も

今日も 過ぎてゆく


ご飯の時 いつも お父さんや お母さんと

話すけど


戦後3年目の日記(25歳)



 戦後

あれから 三年 いろいろな事が 私を

まってゐた。

人生は運命論者でも 結果論者であっても

いけない

私は生まれたいと思って、生まれてきたのでもなく

この運命を自分で選んだのでも 待ったのでも

なかった。

たとい自分でこうして来たと

思う事も 大局から見れば やっぱり させ

られて来たのだと思ふ。

人はただ 良心に恥じない生活 まごころ

をもって きれいに生き抜く事が出来たと

喜びを感じるときが 一番 仕合せなのではない
だろうか

どんな 不如意のなかであっても 自分をより

本気に みつめなければならない そして

明るく、立ち上るのだ。

若い現実に徹し 別の夢を えがく事

も ただ一人の人のためにこそ おそれ かなしみ

ただ一すぢに 生きた。


その苦渋の 現実そのものが 私の夢

で あったのかも しれない.


 よかった よかった

  青空が 見へる

  心に 五月の 微風 が  かほる




私はこの日記を読むたびに言葉のひとつひとつが胸にしみいる。

戦争は二度とくりかえしてはならない。

いまも戦火の絶えることのない現代世界を根本的に変革しなければならない。