[1086]「平和憲法」という表現

 

 国葬についての毎日新聞の紙上対談の続きです。

 国葬反対運動をはじめ護憲運動がなぜ敗北してきたのかを考えています。保坂は憲法をその担い手から切り離して憲法の文それ自体に平和の力が備わっているかのような捉え方を批判します。

 戦前は「軍事独裁」ではなく「行政独裁」というべきだという保坂は更に次のようにいいます。「もう一つは『自由』や『平和』は、綜合的に検証しなければいけないのに、イメージだけでそれらの言葉が使われています。自由、平和といった言葉を使えば、社会全体がなれ合っていくような言語空間もできてしまいました。」

 池上がそれを受けて「平和や民主主義という言葉には柔らかい感じがありますが、それらを守っていくのはとてつもなくきついことですよね。」と問題提起をしています。

 ここから保坂が持論を展開して行きます。

 「『平和憲法』と表現した時から間違いが始まっています。帝国憲法を『軍事憲法』と位置付ければ、現行憲法は『非軍事憲法』なのです。平和憲法の目的に到達するまでには距離があるから、国民はその距離を埋めるために努力をしなければならない。しかし、スタート時から『平和憲法と』位置付けてしまったので、動かない。」

 大切なことが言われています。憲法の条文では戦争の放棄を謳っていますが、流動する国際的国内的状況の中で岸田政権は戦争の体制固めに向かっています。敵基地攻撃能力の保持、防衛装備品の制限緩和、防衛予算の増額など軍事大国に向かっています。

 憲法9条はいかようにも解釈されてきました。政府の軍事大国化の諸政策は憲法違反だということを主張するだけでは無力です。

 保坂がいう「行政独裁」反対の闘いが必要です。「行政権力」の肥大化はファシズムを意味しています。したがって労働組合、市民団体は、日本政府のファシズム化に反対する力の創造の軸にならなければなりません。