[1460]東海林さだおの新型コロナ論を読んで想うこと

 今日の朝日新聞「文化」欄に漫画家•エッセイストの東海林さだおが寄稿しています。「3年余に及ぶコロナとは何だったのか」というテーマで書かれたピリッと風刺の効いた寄稿を読んでおもしろかった。

 冒頭で「新型コロナは、いま総括すべき時期にきている。と、いう人もいれば、いや、まだまだ、という人もいる。中締めというのはどうか。このへんで一回お勘定をしておく。」と言います。

 感染した患者に適用する感染症法の項目が2類から5類に変わっただけでコロナウイルスが地上から消えたわけではありません。医療施設で集団感染があり、医師不足の中で献身的に治療にあたった医療労働者が感染または過労で犠牲になるという悲しい事態も起きています。企業は真実を明らかにすることなく、大きな問題として報じられません。新型コロナ危機は終わったとされ、政府のコロナ医療支援政策が中断されたことが医療機関の労働者に過密労働が強制される政策的根拠になっているのではないでしょうか。メディアもその風潮に染まっています。犠牲があっても問題化されず報道されなくなっているのではないでしょうか。

 寄稿に戻ります。東海林さだおは言います。

「今回の新型コロナは人類の災厄であった。人類はこれまで災厄から多くのことを学んできた。人類が今回の新型コロナで学んだものは何か。」

東海林は真顔で言っているのだろうと思って以下の文を読みました。

「それは団結の心ではないだろうか。

 これまでバラバラだった世界中の人の心が、新型コロナという人類共通の敵に一致団結して立ち向かった。

 世界中の人が、まずマスクで立ち向かった。

 世界中の人がマスクをかけた。

 感染防止のためソーシャルディスタンスが実行された。

 世界中の人々が2メートルの距離をあけて列に並んだ。

 世界中の飲食店がアクリルパネルを客と客の間に設置した。

 世界が一つの目標に向かって歩き始めたのだ。

 このような例がこれまでの人類の歴史の中で一度でもあっただろうか。

 コロナをきっかけにして、世界はひとつの目標すなわち平和に向かって歩き始めたのかもしれない。

 まさに、災いを転じて福となす。」

問題はその次です。

「そう思い始めた矢先、ロシアはウクライナに侵攻した。

 ガザでは血みどろの戦いが始まった。

 コロナなんかより、人類のほうがよっぽどタチがわるいのではないか。」

 人類は新型コロナで団結の心を学んだはずが、そうではなかったと言っています。東海林さだおは字面では人類のコロナ対応を美化していますが批判の棘が潜んでいると私は感じます。

 新型コロナパンデミックは階級社会の矛盾を明るみにだしました。コロナ感染症の拡大を止めるのは社会の生産活動を一斉に2週間止め、感染した人を治療すればいいのですが日本のみならず資本主義の現代社会にそのしなやかさはありません。経済活動は縮小し資本家は労働者を解雇•雇い止めにして企業危機を乗り切りました。また、感染の危険性があっても労働者は生活のために働かざるをえず多くの労働者と家族が感染し犠牲になりました。そして脆弱な体制の中で、医療に携わる方々の献身的な努力によって検査治療が行われました。しかしそれは強いられた労働でした。

 では新型コロナという人類共通の敵に一致団結して向かったという団結の質は何だったのか。「団結」は資本主義という階級社会の生産活動のために経済的社会的秩序を維持するためものだったのではないでしょうか。ひとえに生産活動による資本の増殖のためです。それが「コロナとの闘い」の本質だと思います。ですから資本家は事実上の強制をもって感染拡大を阻んだということです。「マスク」や「ソーシャルディスタンス」という言葉の標語化はその手段です。

「コロナとの闘い」を通じて人類は平和に向かって歩み始めたのではありませんでした。東西の資本家階級の政府はコロナによって促迫された政治経済的危機と国家間の利害対立を「解決」するために戦争をはじめました。

 しかし戦争によって労働者階級が死んでいくことは国家=資本家階級の利益のためには仕方がないこととされるのです。