[1556](寄稿)医療あれこれ(その104)ー3

 

ペンギンドクターより

その3

恩寵の時間―その28

 

 人が生きていくのに、最も必要なものは、日常生活の規則性だと、私は思う。

 朝、目覚めたら起きて顔を洗う。歯を磨く。新聞を読む。犬を連れて散歩に出る。朝食の支度をする。それは、人によって様々であろう。

 私の場合、5時に起床、犬の頭をなでて、鎖をはずし、庭に放す。狭いうえに、庭木が無秩序に植わっているので、犬は垣根と家との狭い通路を走り回るだけだ。しかし、それを眺めている私は「朝」を実感する。新聞を郵便受けから取り出し、玄関のドアを開けて、家の中に入る。こうして一日が始まる。

 府中刑務所の独房にいた時は、寒さで目覚めることが多かった。朝のラジオ体操の音楽が鳴り、私は、張り切って身体を動かした。漠然と、「出所したら田舎に帰ろう」と思ってはいたが、先のことは殆ど考えなかった。その日その日を規則正しく送ること。意識的、無意識的にそうしていた。図書館から差し入れられた「戦争と平和」を読み、医学書に眼を通す。時々、二枚の畳の上で体操をする。食事は、美味いとは言えないが、決してまずくはなかった。空腹は最良の調味料だった。朝、8時半になると近所の小学校の学校放送が聞こえた。日差しが殆ど当たらないのが、ちょっと残念で、斜めに入るわずかな日の光に鉄格子を通して向かい合った時、なぜか感動した。

 当時の私は、朝の日の光に「今日も一日が始まる」と、そのことをよりどころにしていた。勿論自由はなかったし、先行きの展望も無く、さりとて革命というものに殉じている昂揚感もなかった。それでも、雪が降れば、白い世界に心がときめいた。明るい日差しには、心がはずんだ。「面会」という看守の声に、戸外を歩けることを喜んだ。

 ナチのユダヤ強制収容所のひとつ、トレブリンカを描いた本があった。その中で、ユダヤ人の軍人の話が記憶に残っている。明日は、殺されるかもしれない彼だったが、朝起きると必ずひげをそった。それは、規則正しい彼の日常の一つ、一日の始まりだった。私も、そうありたいと思った。

 女房が、クモ膜下出血で倒れ、約一ヶ月家を留守にした時、10歳と8歳の娘と私は、一日も日常生活を変えなかった。Y先生のおかげではあったが、3人はいつものように学校に行き、いつものように仕事をした。それが、我々3人にとっては、危機を克服できる最善の方法だった。特に、母親が倒れた現場をみたチビたちにとっては。

 私は、私が関わった多くの患者さんたちに、「普通に仕事をして下さい。朝はいつものように起きて、自分のしなければいけないことを、いつものようにして下さい。」と話す。それは勿論患者さんたちの疾患に癌が多く、直接心肺機能に異常がないからではあるが、突然病気という一大変事に遭遇した人々が、精神的に復活するには、人それぞれの、小さな、しかし確実な日常生活に復帰することが一番有効な方法だと考えるからである。

 きっと、軍人だった父も、戦場で一日一日をそうして生きたのだろうと、私は思う。