12月3日の朝日新聞「折々のことば」(鷲田清一)に数学者・岡潔のことば(『人間の建設』新潮文庫25頁)が紹介されています。
内容のある抽象的な観念は、抽象的とは感じない。
岡 潔
私は若い頃、『春宵十話』を読み岡潔に反発しつつも畏敬していました。難しく近寄り難い存在でした。あれから半世紀以上が経ちました。岡潔の本はその間読むこともありませんでしたが、最近このことばを見た私はマルクスの「経済学の方法」(『経済学批判』岩波文庫)を連想しました。岡潔がそれを読んだかどうかわかりませんが、深く考えた人のことばは似てくるのだと感じ不思議でおもしろいと思いました。そこで『人間の建設』(小林秀雄との対談集)を買ってきて読みました。
『人間の建設』25頁に「数学も個性を失う」という見出しがあり小林秀雄が質問しています。
小林 このごろ数学は抽象的になったとお書きになったでしょう。私ども素人から見ますと······抽象的な数学のなかで抽象的ということは、どういうことかわからないのですね。
岡 観念的といったらおわかりになりますか。
小林 わかりません。
岡 それは内容がなくなって、単なる観念になるということなのです。どうせ数学は抽象的な観念しかありませんが、内容のない抽象的な観念になりつつあるということです。内容のある抽象的な観念は、抽象的と感じない。······つまり、対象の内容が超自然界の実在であるあいだはよいのです。それを越えますと内容が空疎になります。中身のない観念になるのですね。それを抽象的と感じるのです。
引用以上
つまり概念に実在的根拠があれば観念的とは感じないということでしょう。認識論的に解釈していえば、超自然界の「実在」を数学的概念を適用して抽象的な観念として把握すればその観念は生きた抽象性をもつということでしょうか。
「経済学の方法」を引用します。
「あるあたえられた国を経済学的に考察するときには、われわれは、その国の人口、······からはじめる。······しかし·····人口は、たとえばそれをなりたせている諸階級をのぞいてしまえば、ひとつの抽象である。これらの階級もまた、その基礎となっている諸要素、たとえば賃労働、資本等々を知らなければ、やはり内容のないひとつの言葉である。······そこで、もしわたくしが人口からはじめるとすれば、それは全体の混沌とした表象なのであり、いっそうたちいって規定することによって、わたくしは分析的にだんだんとより単純な概念にたっするであろう、つまりわたくしは、表象された具体的なものからますます希薄なabstracta《一般的なもの》にすすんでいき、ついには、もっとも単純な諸規定に到達してしまうであろう。そこから、こんどは、ふたたび後方への旅がはじめられるはずで、ついにわたくしは、ふたたび人口に到達するであろう、しかしそれは、こんどは、全体の混沌とした表象としての人口ではなくて、多くの規定と関連をもつ豊富な総体としての人口である。」
岡潔が「抽象的とは感じない」と言う「内容のある抽象的な観念」は、マルクスの言う「多くの規定と関連をもつ豊富な総体としての人口」という概念と同じ認識論的位相にあるという気がします。
さらにマルクスは次のようにまとめています。
「具体的なものが具体的であるのは、それが多くの規定の総括だからであり、したがって多様なものの統一だからである。だから思考においては、具体的なものは、総括の過程として、結果としてあらわれ、出発点としてはあらわれない、たとえそれが、実際の出発点であり、したがってまた直観と表象の出発点であるにしても。第一の道では、完全な表象が発散されて抽象的な規定となり、第二の道では、抽象的な諸規定が思考の道をへて具体的なものの再生産に導かれる。」
直接的現実の反映を出発点として進む認識=思惟活動を媒介として把握した存在論的内容は生きた抽象性をもっていると言えます。岡潔は認識論それ自体を意識的に適用して語っているわけではないのかもしれませんが、彼が言う「内容のある抽象的な観念」はマルクスの認識方法の第二の道の到達点の概念と似ていると私には思えます。
私は数学は全くの素人ですが、岡潔に親近感を持ちました。