ペンギンドクターより
その2
本の話(その4)
今回は、ずいぶん以前に読んだのですが、梶田昭『医学の歴史』を取りあげます。
●梶田昭『医学の歴史』(2003年9月10日第1刷発行、360ページの講談社学術文庫)。著者の略歴をまず簡単に記します。1922年岐阜県生まれ。東京大学医学部卒業。元東京女子医科大学教授。2001年1月没。著書に、『小病理学』『長与又郎伝』『入門病理学』、訳書に『旧約聖書の医学』『新約聖書とタルムードの医学』『カール・フォン・リンネ』『古代インドの苦行と癒し』『フィシオログス』などがある。裏表紙のコピーを記します。
人類の歩みは絶えざる病との格闘であった。患者への温かい眼差しをもって治療に当たり、医療・医学の根源からの探究を志した病理学者が、人間の叡智を傾けた病気克服の道筋とそのドラマを追う。興味深い挿話、盛り沢山の引例、縦横に飛ぶ話柄。該博な知識と豊かな教養をもつ座談の名手が、洗練された名文で綴る人間味溢れる新鮮な医学史。
ここから目次に入るのが普通なのですが、今回は佐々木武「解説にかえて」に述べられている、梶田昭氏の生涯(p349-352)を記したいと思います。一般に記載されている著者略歴では不明の「著者の歴史」が記載されているからです。長くなりますが、引用します。
本書の著者、梶田昭は大正十一年(1922年)岐阜市に生まれ、地元の小学校に入学、昭和四年東京池袋の小学校に転校している。同九年府立五中に受験失敗、城西学園中学入学。同十三年に一高文科受験失敗、城西中学卒業。府立五中補修科へ。同十四年浦和高校理科に入学、この年第二次世界大戦勃発。同十七年卒業、東大医学部入学。前年、日本は太平洋戦争に突入していた。
同十八年(1943年)十月二十一日、今なおフィルムに残された映像を通して記憶に生々しい、あの雨の神宮競技場での学徒出陣壮行会に参加、一週間後には、生地岐阜にて徴兵検査を受け丙種合格となったが、幸いにも徴兵は免れ、敗戦後、原爆被爆地、広島で研究班の一員として九月初旬、原爆症解剖にあたった。その九月に繰り上げ卒業となり、物療内科での研修を受けて、同二十一年七月古河鉱業所、足尾銅山附属病院の医師として任地におもむいた。足尾銅山といえば、だれしも、田中正造・渡良瀬川・鉱毒事件と連想が働く、近代日本草創期の大事件の地である。今なおその傷跡がいえないといわれる。
その任地では、工場排煙が風向きしだいで木々の葉をあかく変えたといわれる。内科医として梶田はその翌年、はやくも第二回日本産業医学会で「足尾の珪肺」と題する口頭発表を行っている。この年結婚。翌年七月、東京都下清瀬村の結核療養所として今も存続する国立療養所東京病院医官として赴任。この時期、引揚者のため舞鶴から病院船高砂丸に乗り込み大連との間を往復したりした。
同二十七年にはメーデーに参加。これが皇居前広場での惨事を惹起する「血のメーデー」事件となり、検挙され、「騒擾罪」を問われるが、不起訴となり拘留期間を終えて釈放された。この頃の梶田の臨床医としての仕事はもっぱら結核患者の治療であり、患者の待遇改善を求めて、都庁での「座り込み」を行ったこともある(同二十九年)。
同三十年(1955年)戦後日本共産党内のいわゆる「50年問題」としてくすぶりつづけていた1950年コミンフォルムによる日本共産党批判に端を発する党内分派の抗争史に一応の決着をつけた日本共産党第六回全国協議会、いわゆる戦後史に名高い「六全協」が七月に開かれた。
この翌年1956年ソ連共産党第二十回大会はいわゆる「フルシチョフ秘密報告」が「公然化」されたことでスターリン批判が公認され、それは「ハンガリー事件」に及んで東西冷戦下での共産主義体制を震撼させるものとなり、「スターリン体制」下での共産主義体制の実態をさらけ出すものとなった。
梶田は昭和三十二年に東北大に移り、翌年助手になる。未亡人によると、その頃には日本共産党を脱党していたといわれる。入党はいつであるか定かではない。つまり、梶田は一時期共産党員であったことになる。東大細胞に属したのかもしれないが、今となっては確かめようがない。とまれ、彼もまた、戦中・敗戦・戦後復興期をひとりの青年医として生き抜いて、社会と真正面に向き合った「時代の子」(これは梶田が本書の冒頭で引いている丸山(ペンギン注:丸山眞男)がきらった表現である)であった。珪肺(僕は少年期に「ヨロケ」という俗称で教えられた)と結核という“社会の生んだ病”に取り組んだデモクラット梶田にふさわしい生き方だったといえるだろう。同三十五年東北大助手から労働省衛生研究所に転じ、三十六年には東京女子医大助教授に迎えられ、三十九年、病理学教授昇任、時に四十二歳であった。意図せずして「立身出世」に至ったというべきだろう。
…(中略)…これ以後の梶田の後半生における、その「教養主義」と「知的好奇心」とは病理学にとどまらず医学・医療全般に広がり記号論にまで及ぶ、言葉の真の意味で「学と知の世界」に“遊んだ”と想像される。その博覧強記、博引傍証ぶりはとどまることを知らず、それまでため込んだものを、そのウンチクを一挙に傾けたのが「絶筆」となった本書『医学の歴史』であった。昭和五十三年に定年退職、名誉教授の称号を得てのち、引退生活を楽しんだようにみうける。
平成十年(1998年)福祉行政の一環として行われた地域の健康診断で胸部大動脈瘤を発見、再度確認のうえ、特別に対症することなく、同十一年秋「医学史」の執筆を始め、翌年の終わりにひとまず脱稿、入稿することなく年を越し、同十三年(2001年)一月七日大動脈瘤破裂で即死に近い状況で死去、もとより覚悟の死であったと思われるが、二十一世紀冒頭の死であった。
つづく