[226](投稿)焦る菅首相、学術会議解体・再編へ

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※※※ 石川木鐸
 
 菅・政府は、真正面からの学術会議攻撃では、落城しないとみて、斜めや背後から学術会議を攻めようとしています。「方広寺鐘銘事件」(注1 参照)と同じやり方のように見えます。もとより、秀吉は「喧嘩好き」で、利休と仲たがいして死罪に処しました(菅は名前が「よしひで」というのですね。逆に読むと「ひでよし」ですね)。
 最近、菅のことを書いた「もちあげ」本がまた出たようです。広告の目次を見ると、「人斬りの菅と呼ばれて」という章もあり、菅が官僚の左遷を厭わない、もちろん首切りも厭わない、敗戦後の頭目では珍しい「やくざ」まがいの、「なりあがり」です。 
 これに「日本学術会議」は、まともに闘えていません。野党も同じく菅政府の作戦を見越して闘うということができていないと思います。 
一番、心配していたのは、約10億円と言われる予算の大半が50人の常勤勤務の事務方の給与を削減するというのではないかということでしたが、やはり城を攻めるなら「兵糧・水」を断つことです。 
第二次世界大戦で、今から見れば、日本が負けることは一目瞭然のことでした。戦艦、輸送船、戦闘機、どれも石油がなければ動けないものです(船は石炭でも動けたでしょうが、石炭の火力を上げ下げすることは石油より困難だったと思います。戦闘機はもちろん石炭では飛べません)。 
 「兵糧攻め」を食らうと、50人といわれる官僚は、左遷されるか、時には、難癖付けられ首になる可能性もあります(人斬りの菅の面目如!!)。 
これを材料に、日本学術会議の「民間移行」あるいは「解体」あるいは「菅官邸・政府」の命令の効く「御用学者会議」に変質させられます。今の「原子力ムラ」の「御用研究者」とか「感染症ムラ」の「御用研究者」になり、政府の意見に沿う「答え」を「腹話術」のように言う「人形」にさせられます。 

「学問の自由」をまもる運動の限界
 
 「学問の自由」は、この資本主義の階級社会の中では「幻想」にすぎないと思います。以前にも言いましたが「科学」といえども、「イデオロギー」です。菅官邸・政府などの「カジノ誘致を推進する」「オリンピックを開催する」という「イデオロギー」は、現代の「カジノ資本主義」(「アベノミクス」も同じです)【投機】を主軸とした金融資本主義を御旗としている下部構造を基礎構造としている上に聳(そび)える「上部構造」です。下部構造が変われば、上部構造に大なり小なり大きな影響を受けざるを得ません。「学術」はそれ自身歴史的社会的に規定されているのであり資本主義社会の中では階級性をきざみこまれるのです。
 また、逆も真なりで、上部構造・そのイデオロギー(研究成果や見解・意見等々)は、下部構造に反作用し、資本主義の「カジノ経済」化は深まります。 
「学問の自由」をそのまま対置しても、菅の実力行使=職員の削減や10億円を削る「兵糧攻め」には菅は「屁」とも思わないでしょう。権力と金力には、「学問の自由」の対置は残念ながら無力です。  
政府の言うがままの「学術会議」では、「無力」で、「面白くともなんともない」味気ないものになり、「研究者・学者の国会」ではなくなります。そればかりか、政府の戦争政策をはじめとする悪政を「学術」的に支える役割を果たす会議になってしまうのです。
 諸研究者の方たちは一致団結して、また、社会の中にいる全国の労働者、学生諸君、ご家族とともに現政権と戦う新たな組織と運動作り出して、菅政権と戦うべきです。 
 全国の労働者の皆様、御家族の皆様、研究者の皆様、学生諸君、読者の皆様、一致団結して、現政権に対して「研究者・科学者」の「国会」=「日本学術会議」の存続とさらなる発展に応援していこうではありませんか!!

注1 方広寺鐘銘事件(ほうこうじしょうめいじけん)

 豊臣秀頼による方広寺大仏殿再興に際しひき起され、大坂冬の陣の原因の一つとなった事件。豊臣秀頼は、亡父秀吉追善供養のため、慶長七年(一六〇二)、方広寺大仏殿(東山大仏堂)の再建に着手したが、年末の失火で頓挫、あらためて片桐且元を奉行に七年後に事業を再開、同十五年六月十二日地鎮祭、八月二十二日立柱式にこぎつけた。大工事で出費も莫大なものであったが、最後に、慶長十九年四月十六日、高さ一丈七寸(三・二四メートル)、口径九尺五寸(二・八八メートル)、銅使用量一万七千貫(六三・七五トン)という巨鐘の鋳造をもって無事竣工した。五月二十一日、大仏開眼供養と堂供養とを併せて八月三日に行うことが決まり、駿府徳川家康の了承も得て準備がすすめられた。
 ところが七月十八日に家康から開眼供養と堂供養の分離案が出され、ついで同二十六日、鐘銘と棟札の文章に疑義ありとして供養の延期を命ぜられた。特に、鐘銘の中の「国家安康」「君臣豊楽」の二句がヤリ玉にあげられ、安の一字で家康を分断した上、豊臣を君として楽しむとの底意が隠されていると難詰、銘文を草した禅僧文英清韓と且元が弁明のため八月十三日駿府へ赴いたが、全く耳をかさなかった。それのみか、大坂城への浪人雇用を責め、九月に入るとさらに豊臣氏に対し、国替えまたは淀殿か秀頼の江戸下向のいずれかに応ぜよと強要するに至り、ついには大坂冬の陣が勃発した。なお、この事件の原因となった巨大な梵鐘は、明治十七年(一八八四)建立の方広寺鐘楼に納められて現存している。→大坂の陣(おおさかのじん)
[参考文献]
大日本史料』一二ノ一三・一四、岡本良一『大坂冬の陣夏の陣』(『創元新書』一六)(渡辺 武)©Yoshikawa kobunkan Inc.