ブログをはじめて満一年になりました。読者、投稿者の皆さんご協力ありがとうございました。これからも続けますのでよろしくお願いいたします。
激動する世界のなかで考える
現代世界は新たな戦火の中で激しく動いています。
ガザでは無差別の軍事攻撃のなかで多くの労働者市民とその家族が犠牲になり、ミャンマー、ロシアは暴虐の嵐の中で労働者階級は命がけでたたかっています。噴出する政治的経済的矛盾のしわ寄せをうけ、起ちあがった労働者市民に暴力的弾圧を加え危機をのりきる全世界の支配者階級。労働運動の声は小さく、国際的な組織的反対闘争は展開されていません。
なんということでしょうか。
憲法改悪に踏みだす日本政府を翼賛するメディア
日本では、戦後74年のこんにち、政府は国民投票法の改定を突破口として悲願であった憲法改悪をおこなおうとしています。政府は入管法改悪案をとり下げまでして、改憲の一里塚である国民投票法の成立を最優先しました。
9条改悪とともに、新型コロナ危機を奇貨として憲法に創設しようとしている緊急事態条項は、災害だけではなく、国内の反対運動の激化を「内乱」と規定しさえすれば弾圧を可能にするものなのです。
ヒトラーが活用したドイツのワイマール憲法の国家緊急権もそうでした。どの国の国家権力も盛り上がる反対運動を弾圧するために行動します。緊急事態条項の創設のねらいはそこにあるのです。
それを一部メディアは援護しているので警戒しなければなりません。。
日経新聞日曜版に「風見鶏」というコラムがあります。
5月15日版は「『喉元過ぎれば』の落とし穴」というタイトルです。「5.15事件から15日で89年がたった」と書きだされています。いまの東京などは新型コロナウイルス禍で緊急事態宣言のさなかにあるが、「欧米のようなロックダウン(都市封鎖)のような措置は取れない」といいます。
そしてこう続けます。
「1932年5月15日、犬飼首相が海軍青年将校らに暗殺された。政党政治が終止符を打ち、軍部が台頭するきっかけとなった。国家統制、そして戦争に突き進んだ反省から、戦後日本は国が権力を広げ、個人の権利を制限することへの抵抗を根強く残してきた。」
私はこれを読んで、「風見鶏」の筆者は「個人の権利を制限すること」に否定的なのかなと思いました。けれども、そうではありませんでした。
そのあとで、自民党の改憲推進本部長の衛藤氏の発言を肯定的に紹介する形で緊急事態条項の必要性を説いているのです。
「風見鶏」は衛藤本部長の発言を次のように紹介しています。緊急事態条項について「国会で議論しない状況が続けば与野党の議員は国民に失望される」と危惧する衛藤氏は、「危機時に政府が強い対応をとれる緊急事態条項を具体的に討議するよう力説する」と。そしてさらに「自民党改憲案の緊急事態条項に感染症を対象に加える修正内容を党内で協議し、早期の国会提出に意欲を示す」と衛藤氏の言動をまとめています。批判的コメントはありません。その上で「風見鶏」は、緊急時の権利制限に関する根本的な議論は憲法との関係が論点となる、と改憲論議に読者を誘っています。
「風見鶏」はコロナ対応と改憲・緊急事態条項とを結びつける衛藤改憲本部長と同一土俵に立っているといえます。政府のコロナ危機対応に不安をもつ国民の意識を緊急事態条項の創設に誘導しようとしているのです。〝「ロックダウン」できるように憲法をかえればいいのだ〟というわけです。
「コロナ収束まで議論を待つのは『喉元過ぎれば熱さを忘れる』になりかねない」
「風見鶏」は政策研究大学院大の竹中教授の次のような言葉を引用しています。「原発処理水の海洋放出決定を例に『世論が厳しくても先送りしない対応で評価を得る。コロナ対策はそこが見えない』と言う。」
この発言をうけて「風見鶏」は「収束まで待つのは『喉元過ぎれば熱さを忘れる』になりかねない」と私権制限の壁を今の危機のなかでのりこえよ、改憲につなげよと檄を飛ばしているのです。
「風見鶏」はまさに風見鶏です。時代の風向きをみて場当たり的に国の進むべき方向をかえよといっているのです。冒頭で5.15事件の「教訓」にふれながら「個人の権利を制限することへの抵抗を根強く残してきた」といったのは、改憲にたいする抵抗を放置するな、打ち砕けと政府の尻を叩いているのです。
私たちはメディアの翼賛化に警戒が必要です。
そしてこれからも連合労働運動のなかに形成されている改憲賛成の勢力と闘っていかなければなりません。
若々しい闘いの息吹を
スターリン主義の「社会主義国」ソ連邦が自己崩壊して30年、世界は世紀末の様相を濃くしています。ソ連邦は、搾取と収奪と抑圧のない社会建設を希求する下からの闘いによって倒されたのではなく自己崩壊してしまいました。この事態に直面して、世界のスターリン主義者たちは、マルクス主義は間違っていたという資本家階級のキャンペーンのなかで脱イデオロギー化の波に沈んでいきました。そしてマルクス主義の痕跡が残っていた既成労働運動のイデオロギー的心棒は溶解したといわざるをえないのです。脱イデオロギー状況をのりこえていく闘いはなお微弱です。この停頓を突き破る若々しい力を是非とも創造しなければなりません。
「資本主義の危機」が語られ、『資本論』の「復権」を説く本も書かれよく売れているそうです。それ自体が資本主義の行きづまりを映してはいます。これらの理論的営為の意義と限界にふまえてともに理論創造のためにたたかうべきでしょう。
新型コロナ危機のなかにあって、私たちはこんにちの反対運動をのりこえていく労働運動・反戦闘争の創造が問われていると思います。そしてそのただなかで過渡期社会建設論をはじめとした諸理論の構築が問われているのではないでしょうか。
ロシア革命も中国革命もなしえなかった・マルクスやレーニンやトロツキー、そして日本のマルクス主義者たちが想い描く階級対立のない・かの世界を実現するためには、若い労働者、学生だけではなく年老いた「若々しい」力が必要です。