[919](寄稿)私の読書記録 ソルジェニーツィン『がん病棟』

ペンギンドクターより
その2
 さて、本日は私の60歳以後の本業とも言える「読書」についてお時間を拝借します。

 先日、朝日新聞を読んでいたら、ロシア文学の翻訳家の女性が、ロシアによるウクライナ侵攻の状況においても、ロシアの文化、音楽や文学について否定しないでほしいというような主張に目がとまりました。「本当にそうだな」と同感でした。 

 よく考えてみると、私が最もたくさん読んだ外国文学を国別に挙げろといえば、やはりロシア文学だと思います。何しろ、トルストイドストエフスキーがいることが大きい。二人の本をすべて読んだわけではありませんが、一番熱心に読んだのはこの二人かもしれません。私たち戦後まもなく生れた団塊の世代では、ロシア文学は大きな山脈だったように思います。


 さて、上記の女性翻訳家の主張に触発されたこともあり、私は書斎の本棚から昔読んだソルジェニツィン著、小笠原豊樹訳『ガン病棟』を先日読みなおしてみました。この本は、第一部・第二部があり、昔読んだ記憶はあるのですが、もう50年も前のことで、実は覚えているのは、「ロシアにはずいぶん沢山の女性のお医者さんがいるのだな」という曖昧な記憶でした。今回、最後まで読んでみて、結末のところで、確かに完読したという確信が持てた次第です。ご存知のようにソルジェニツィンノーベル文学賞を受賞しています。ノーベル賞というのは、多少政治的な背景もあると疑われる節もある賞ですが、日本においては絶大な評価を持っている賞です。
 それはそれとして、大変長くなりますが、私の読書記録を転記します。

 ●ソルジェニツィン著、小笠原豊樹訳『ガン病棟 第一部』
 1969年2月10日発行、1970年3月10日第13刷発行、297ページの新潮社刊行の単行本である。原文は1963年頃に書き始められ、第一部は66年に、第二部は67年に完成した。著者の説明によれば、この作品は正確な「時」と「所」のデータをそなえたポリフォニック(注:重層的)な、主人公のいない長篇であり、その「時」とは第一部では1955年2月初旬の一週間、第二部はそれから一ヵ月後の三月初めである。「所」はウズベク共和国の首都タシケント市の総合病院の癌病棟(彼自身が追放生活中にこの病院で腫瘍を治療してもらったという)。内容を理解するためには、53年3月のスターリンの死、同年12月のベリヤ銃殺、55年2月9日のマレンコフの辞任、56年2月の第二十回党大会(注:いわゆるフルシチョフによるスターリン批判の秘密報告あり)と、いわゆる「雪どけ」状況へ移り動いて行くソビエト社会の概況を摑んでおくことが必要である。

以下のソルジェニツィンの経歴は、訳者ノートによる。
 ソルジェニツィンは1918年にコーカサス地方のキスロヴォーツク州で生れ、ロシア南部のドン河畔のロストフ市で育った。幼時に父を失い、母親の手一つで育てられたという。大学時代の専攻は数学で、ロストフ大学の物理数学科に学んだが、この頃から短篇を書いていた。大学卒業の数日後に独ソ戦が始まり、彼はただちに召集された。初めは輸送隊の馬丁のような仕事だったが、青年将校養成の講習を受けた後、砲兵隊に入って、各地を転戦し、「祖国戦争」章と「赤い星」章という二つの勲章を授けられた。戦争末期の1945年1月、砲兵大尉だった彼は突然肩章と勲章を剥奪され逮捕されてモスクワの刑務所に送られ、尋問を受け、当時の特別政令により裁判なしで八年の実刑を課された。
 この事件について、彼自身の語るところでは、「前線から出す手紙では軍の機密を漏らしてはいけないことは知っていたが、意見を述べてもいいと考え、ある友人に手紙を出していた。その中で名前はあげなかったが、スターリンに対する意見、すなわちスターリンレーニン主義から逸脱しており、戦争の前半の失敗に責任があり、理論的に弱く、非文化的な言葉を話すと思っていて、青年の軽率さからそれをみな手紙に書いた」とのこと。
 囚人になった彼は初めモスクワ市やその周辺の建設現場で働き、やがて刑務所内の科学研究所で囚人数学者としての仕事を与えられ、刑期の最後の三年間は中央アジアのカザフ共和国北部のいわゆる矯正労働収容所(ラーゲリ)で石工と鋳造工の仕事をした。1953年、35歳になっていた彼は刑期終了と同時に、カザフ共和国ジャンブール州のコク・テレクという僻村に追放された。政治犯は刑期終了後に改めて追放処分を受け、流刑囚として僻地にとどまらなければならないのが普通の成行きなのである。この村で数学教師をしながら、彼は戯曲『鹿と山小屋の女』を書き、長篇『第一圏』を書いた。スターリン批判のきっかけとなった1956年のソ連共産党第二十回大会ののち、彼はようやく流刑地から中部ロシアへの帰還を許され、翌57年に「名誉回復」が行なわれて、リャザン市の中学教師として物理と数学を教えるようになった。・・・・・・。

 ソルジェニツィンを一躍有名にした中篇『イワン・デニソヴィチの一日』が書かれたのは、追放生活の末期から「名誉回復」直後にかけてであろうと推定される。しかし、この作品の公表は1962年11月のことであった。

 ▲刊行後まもなく、すなわち1970年頃に私が購入したのであろう。一度読んだと思う。ただ記憶の中ではロシアの病院には「女医さんが多いな」という印象しか残っていない。今回、ベッドに引っくり返って読むだけでなく、車の中やパソコンが立ち上がるまでの時間も含めて読み続け、6月6日(月)自宅二階にて読了。大変面白かった。ほとんどが不治のガンをもって集まっているガン病棟の患者さらには治療に邁進する魅力ある医師や看護師や雑役婦の人々が丁寧に描かれていて、ロシア文学の底の深さを再確認した。ベテランの女性放射線科医、その下にいるドイツ系の有能かつ魅力的な女性放射線科医、さらに医学生ではあるが生活のために当直もしている若い看護師、それらの女性と主人公とも言ってよい著者の分身の流刑囚との交流。密告で昇進を重ねてきた公務員患者の言動など・・・・・・。ノーベル文学賞が授与された理由は、全体主義国家ソ連での不屈な作家魂の持ち主という著者に対する政治的な評価という意味合いもあるのだろうが、それ以上にこの小説の文学としての魅力、すなわち広大な大地に生きる人間像を見事に描いているという意味で私は深く感銘を受けた。第二部も楽しみである。
 目次を示す。
 いくつかの印象に残った文章のページと感想を記す。

 以上が、直後の暫定的な読書記録です。
 私は興味深い文章のあるページを折り込むことにしています(本には悪いのですが)。読んだ直後の読書記録は上記のように簡単に書いておき、約3か月後ぐらいになるのですが、目次を記録しさらに折り込みのあるページをもう一度読み返して、そのページと感想を記録したら、読書記録終了となります。
 第二部の方は3日ほどで読み終わりました。今書棚にあるソルジェニツィンの『煉獄のなかでⅠ』を読んでいます。

 ハナ・アーレントの『全体主義の起源』(「反ユダヤ主義」「帝国主義」「全体主義」の三巻に分かれています)は数か月前に読み終わりましたが、彼女はヒトラーナチススターリンのボルシェヴィズムとを共に「全体主義」としています。アーレントユダヤ人ですが、ヒトラーよりスターリンに対してより「批判的」と私は感じました。この話はいずれまた。
 ソルジェニツィンガン病棟』はガンの外科医であった私には、より読みやすい本ではありますが、ストーリーテラーとしてのソルジェニツィンの文章は出色です。医療についても該博な知識を持ち、自ら経験した収容所や流刑地の生活とそこで出会った人々を描く言葉には、私のような恵まれた自然に住む(災害は多いけれども)日本人には理解できないかもしれない奥行きを与えています。
 今日はこのへんにしておきます。

つづく