[1098]「『和』を乱さない社会」

 11日の毎日新聞「時代の風」に人類学者の長谷川眞理子さんが「『和』乱さない社会 議論を避ける日本人」というテーマで寄稿しています。「このごろの日本社会を見ていて気になることの一つは、人々が議論を避ける傾向にある、ということだ。まじめに議論するという文化の衰退とでも言おうか。」

 「私の青春時代は、学生運動が衰退する直前と言えるだろうか」という筆者、長谷川さんは1952年生まれだそうです。東大闘争をはじめ全国学園闘争華やかなりし頃、筆者は高校生で大学入学時には学生運動の波が引きはじめていたころでしょう。

 「あのころは随分といろいろなことを議論したものだ。••••••いつのころからなのか、日本人は議論をしなくなった。そして、そのような社会的風潮とともに、『議論』ということは、誰かのやり方に『難癖をつける』ことと同じだと思われるようになったのではないか。そして、それは、和を乱す、避けるべきこととなったのである。場を共有している人々の間で波風を立てないことが随分と大事なことになってしまったようだ。」

 確かに当時は意見をぶっつけ合うような議論をする風潮はまだありました。しかしいまや労働運動のなかでも批判と反批判で議論が沸騰することはほとんどないのではないでしょうか。上で決められたことに異を感じても言わず、そのうち異を感じなくなる。

 勇気を出して批判するときがあっても、批判することが相手のやり方に難癖をつけることのように受けとられるのではないかと危惧し、そうではないことを説明して議論しないと疎まれるおそれがあるのです。

 利益を出すことが目的である会社組織の場合には労働者と資本家、経営者はそもそも賃金や労働時間をめぐって対立関係にあります。したがって議論は闘いの手段です。労働組合は会社の経営が厳しいから••••••と言われれば、仕方ないから我慢しようと簡単に妥協してしまうのが今日の労使交渉です。30年間実質賃金が上がらないのは労働組合指導部が「議論」も含む様々な闘いを抑え続けてきたからです。

 運動内部の議論について

 学生運動や労働運動、また学問においても意見の対立を論争を通じて止揚することが前進の原動力となると私は思います。

 ところが、反対運動の歴史では意見が対立する相手を排除してしまうということが運動内部で起きてしまい、前進の桎梏になっています。官僚主義がはびこる運動団体•組織においては、意見があっても封印し相手の意見に合わせることによって対立を「解決」してしまうことが多いのです。批判する方もされる方も論争の中で自分が問われることを忌避するために、重要な問題は上意下達の方針「議論」の繰り返しのなかで霧消することになります。

 社会変革の運動の内部にその風潮が入ると運動は生命力を失い衰退するのですが、そうなることに危機感を覚え批判すると、批判される側が批判するものの批判を封殺することが繰り返されてきました。

 被批判者が、批判されたことにたいして反批判して議論になっていることを掘り下げる努力を怠ったり、批判されたことを鏡として自分を変革することを拒むからです。

 長谷川さんは次のように言います。

 「建設的な議論をするには、論点をはっきりさせ、枝葉を落として論理的に話さねばならない。そして相手と異なる意見を表明するならば、それはなぜなのかを互いに明らかにせねばならない。」

 ソ連邦ソ連共産党内部の議論が官僚主義的に歪められ過渡期社会建設を生動的に進めることができませんでした。「社会主義市場経済」という矛盾したおかしなイデオロギーをこしらえて、中国の特色ある社会主義の名のもとに国家資本主義へと転態したかつてのスターリン主義国家•中国は下からの批判を徹底的に抑え込む習近平一強体制を敷いています。

 「みんな暗黙の了解のもとに意見を言わないのが一番だ、という社会ではいけないのである。」という長谷川さんの主張は正しいと思います。

 「議論」をまじめにやることが社会変革の必要条件ですが、社会変革の運動の中で内部思想闘争を貫くと排除され、粛清されるという歴史が繰り返されてきました。

 内部議論が生命線だということを唱えていても、なぜそれができないのかということが問題なのです。