[1619]哲学者•長谷川宏インタビューを読んでー5 東大闘争の後で

 長谷川は東大闘争を評して、「観念的抽象的な拒絶や抵抗」が秩序に容赦なくのみこまれた、と総括する文章を書き、「敗北の『暗渠にはつよいひかりがあてられねばならない』とか」書いたといいます。

 確かに全共闘運動は太平洋戦争の歴史を背負った戦後日本社会への異議申し立てではあったが、展開された運動の質が普遍性をもっていたとはいえないと思います。むしろ「大学解体」「自己否定」のスローガンは即自的で素朴な思想的ループの枠内にあったがゆえに運動が弾圧されると担い手は既成の秩序にとりこまれるものだったと思います。

 長谷川は闘争後、30歳になる年に大学を去り外で研究を続けました。

 長谷川は大学研究室の仲間と結婚し塾を作って生活しはじめたといいます、以後数十年、ヘーゲル研究を続けてきました。

 紹介されている『日本精神史』はヘーゲル研究者である長谷川の集大成といえるのでしょう。

 私は社会変革の営為にとって、日本人の精神風土をよく知ることは避けて通れない課題だと思うに至っています。長谷川の労作に学ぶべきこともあるだろうと思います。

 労働運動を進めるためには組合員の意識、気持ちがよくわからないと難しいと思うからです。迎合するのではなく内在的に知るということです。こう言うのは簡単ですが現実は難しい。1960年〜80年代半ばまで労働運動は賃金闘争や反戦闘争で左派が踏ん張っていましたが今や見る影もなくなってしまいました。

 長谷川の『日本精神史 近代編』下巻276頁に次のように綴られています。(「第十五章 高度経済成長下の反戦・平和の運動と表現」より)

「安保条約の設定が政治の焦点となって大きく浮かび上がった六〇年六月に、安保改定阻止のゼネストが六月四日、六月一五日、六月二二日の三回にわたって全国規模で実施された。六月四日についていうと、ストの参加者は全国で五六〇万人。中核は国鉄労組と動力車労組で、電車と汽車は始発から午前七時までほぼ完全に止まった。······」

 国鉄労組は国鉄分割民営化反対闘争で敗北し事実上解体されました。動力車労組は国鉄民営化後自ら解体し、その旧組合員がJR総連を主導したたかいましたが、いまや四分五裂してしまいました。60年安保から70年安保闘争、賃金闘争、反合理化闘争、スト権奪還闘争など日本の社会を根底から揺さぶるほどの運動を展開し日本労働運動の左翼的転換を試みました。が、政府支配階級から労働運動への熾烈な破壊攻撃がかけられてくるなかで労働者階級の闘いを日本人の精神風土の内部に染み込ませ土着化することは困難を極めました。組織する主体の限界が克服されず痛苦にも自壊してしまったといわざるをえません。

 歴史的にもその国の精神風土の問題は革命運動にとって避けて通れないことを浮かび上がらせました。ロシア革命後、スターリン主義官僚専制国家に変質したソ連邦スターリン死後、転機を迎えました。一国社会主義論に基づいて世界の共産主義運動に計り知れない影響を与えたスターリンが没して3年後、1956年のソ連共産党第20回大会の「スターリン批判」は単に個人崇拝を否定しただけで、個人崇拝が許された精神的風土にまで掘り下げた批判はなされませんでした。崇拝の対象を「レーニン」にとりかえて党建設の誤りに蓋をしてしまったことが後の自己崩壊の淵源をなします。

 歴史を背負い将来をはらむ行為的現在において何をなすべきか、労働者階級の困難な闘いはつづきます。