[1391](寄稿)医療あれこれ(その94)ー3 藤沢周平の病い

ペンギンドクターより
その3
もうひとつ。
 前回だったか、作家の死因のことに触れました。私が愛読している時代小説家の一人に藤沢周平がいます。彼の本は50冊以上書庫にあります。彼の死因は肝不全です。先日、彼の絶筆ともいってよい『漆の実のみのる国 上下』を読みました。以前購入していたのですが、長篇なので後回しにしていました。米澤藩の上杉鷹山とその周囲の人々を描いたものです。時代小説というより事実をちりばめた歴史小説とも言っていいものです。相変らず緻密な調査に基づいて生きいきと登場人物が描かれていますが、終りの部分があまりにも唐突であり、違和感を持ちました。その原因は解説の「関川夏央氏」の文章で判明しました。著者自身はあと60枚を描き続けるつもりだったのが、病状悪化のために6枚で終わらざるを得なかったのです。
 彼の死因は肝不全です。彼のエッセイには、「慢性肝炎」での通院のことにも言及した文章があります。彼は山形県鶴岡市の生まれです。実際は市内ではなく、近郊の村ですが、その生い立ちが彼の作品にも色濃く残されています。彼の本には樹木のことがしばしば出てきて私にはそのことだけでもイメージが膨らんできます。ここで彼の死因について述べます。彼は肺結核にて5年の療養生活があり、結核の手術のために輸血しています。
 
 肝不全ですが、その原因は今のC型肝炎です。C型肝炎ウイルスが同定されるまでは輸血後肝炎あるいは非A非B型肝炎と言われていました。少し歴史を振り返ります。
 ●輸血後肝炎(血清肝炎) 今のB型肝炎C型肝炎
 1952年血清肝炎と初めて報告。1964年ライシャワー博士が暴漢に刺されてその輸血に売血の血液が使われた。1960年代後半輸血が献血となった。1971年以降にB型肝炎ウイルスと検出試薬が使われるようになった。
 非A非B肝炎が問題だったが、1989年C型肝炎ウイルスの抗体の検出試薬が登場した。 
 
 1997年以降、HBVHCVHIVエイズ)などの核酸増幅試験が血清スクリーニングに用いられ、輸血後肝炎は皆無に等しくなりました。
 
 実は輸血後肝炎の臨床的なデータは、結核患者の血液検査で把握されることが多かったのです。私はかつて6カ月足らずでしたが、国立療養所東京病院に在籍したことがあります。そこの副院長・院長が私の先輩でもあり、空席の医員ポストの一時的人員として赴任しました。その先輩は血清肝炎の臨床の権威でした。その理由は、藤沢周平のように肺結核の手術時に輸血しているわけですが、結核患者ですから、輸血後も長期間同じ病院に通院が続くわけです。元気になって社会復帰しても病院との縁が完全に切れる(後には切れた人も多いでしょうが)わけではなく、定時に診察すれば、血液検査で肝機能のデータが残ります。したがって多くの輸血後肝炎のデータ分析が可能になります。もちろん当時は輸血後肝炎の治療は、肝機能の悪化時は入院安静ぐらいでしたから、データは残っても個々の治療に役立つわけではありませんでしたが、しかしデータが全く無意味だったわけではないでしょう。
 患者さんのデータはその時患者さんの治療に役立たなくても長期的には医療の進歩に寄与すると私は思っています。
 藤沢周平の場合、輸血によりC型肝炎から慢性肝炎、肝硬変、肝不全で死亡となったわけです。今なら、C型肝炎ウイルスを除去する薬が登場していますから、感染初期あるいは慢性化しても治癒が望めます。さらに肝硬変になっていてもウイルス除去により進行を遅らせることが可能となっています。
 B型肝炎については省略します。
 藤沢周平鶴岡市出身ということもあり、東北に対し人一倍愛着を持っています。もう少し生き延びていたら、彼は「石川啄木」を主人公として小説を書く予定があったようです。その小説を読んでみたかったと、私は残念でなりません。
つづく