[24]ソーシャルディスタンス

ソーシャルディスタンス


先日マスクについて書きました。私は、マスクに限らず標語化された言葉には注意が必要、と思います。

自粛、テレワーク、新しい日常、3密、ソーシャルディスタンス・・・・・・

スーパーに行けばレジの前には一定の間隔で線が引いてあります。感染を避けるために人と人との間隔をとってください、ということです。自分の意志で感染を避けるという目的をもって行動することは大切だと思います。

しかし他者と間隔をあけて行動することを「ソーシャルディスタンス」と標語化してしまうと言葉が社会的な道徳規範になってしまうのです。標語は独り歩きすると注意が必要です。標語どおりにならない人が排除の対象になることもあります。
為政者は危機が深まるにつれて標語によって民衆の意識と行動をコントロールしたがります。ソーシャルディスタンスという言葉は今や動かしがたい世界的社会標語になりました。コントロールされた民衆はファシズムの温床となります。コロナ危機のなかであればこそ、私たちはお上のいうことなすことをうのみにすることなく、自分の頭で考えなければならないと思います。

4月21日の天声人語をみて驚きました。あの日の朝、さっと読んで、最後の下りにこう書いてあるのを発見しました。

「ご覧の通り、当欄も本日は、文字間を広げた題字に替えてみた。」

 読むと同時に視線が題字にうつって、私の眼まで広がってしまいました。文字通り題字「天声人語」の間が抜けているのです。

 4月21日の「天 声 人 語」は「ソーシャルディスタンシング」という標語を推奨しています。


電車にのって思うことですが、乗客がついこの間までは、特に通勤ラッシュの始発駅では、われ先に座席に突進して座る様を見て情けないなあ、という気持ちになっていました。ドアが開くと前の列から一斉にかけだすように行動するのです。労働者は疲れています。座ってちょっとでも休みたいなあという気持ちはわかります。競争社会の縮図ともいえるかもしれません。私も少しせかされるような気持ちになります。私は3回に2回は座れません。私はドアの横にたって座った人を見ながら、すごいなあ、人は誰でも行動の目的を持てば機敏になれるんだと感心していました。

ところが今は電車に乗っても、時間帯によりますが空席があっても立っている人がいたり、座席に一人おきに座り、私があいだに座ると隣の人がなんで隣に来るんだ!という雰囲気を充満させてスッと席を立つことがあるのです。これがソーシャルディスタンシングなのでしょう。席を立つ人の気持ちはわかるのですが。なんだか私が異物になったような気持ちになります。

この言葉がひとり歩きし、私たちの行動を縛りはじめるのはどうかと思います。標語にそぐわない人を非難したり、排除したりするようなことになるのは危ないです。

世の木鐸であるべき新聞は、排外的な方向に向かっている社会に警鐘を鳴らさなければなりません。「ソーシャルディスタンシング」が標語化されることに無批判なまま、この標語に題字を広げて応えるのは危ないぞ、と思います。


時には、天声人語ファン