[1237](寄稿)医療あれこれ(その82)ー1「医療の安全」神話つづき

 

 
ペンギンドクターより
その1
皆様
 ゴールデンウィークが始まりました。私たちは遠出をしません。女房が近辺の公園その他をチェックして、歩数稼ぎのための散歩に適した場所を検索して、近場へ出かける予定をたてています。仕事は(火)(木)ですから、5月2日(火)は仕事です。
 ちょうど5月から病院は電子カルテの業者が変更になるので、しばらくは対応に追われます。私の仕事は、病人相手ではありませんから、パターン化できており、それほど苦労はないはずです。しかし、臨床部門は入力の仕方が大幅に変わるので、一人当たり30分はかかると悲壮な覚悟です。もちろん病院ホームページや病院内に掲示を出して、外来・入院共に診療の遅れがひと月は続くだろうと警告しています。業者の担当者もひと月近くはりついて指導してくれます。私は4月初めに前哨戦として来た担当者に「全国統計を取るためにも診療データをまとめて国に報告することは容易にできるようになるのか」と聞いたら、否定的でした。日本という国あるいは日本国民が、「医療という本来国家がやる仕事で官民バラバラでは不合理な部門」を民間に任せるというのは、この情報化時代に情ない限りです。
 
 さて本日は、前回報告した添付ファイルの『「医療の安全」神話』の解説をしたいと思います。
 まず卒業後初めて勤務した病院での「そけいヘルニア」の手術ミスの解説です。男の子の場合、一般的に「そけいヘルニア」は「外そけいヘルニア」であり、精巣が下降したあとの腹膜が袋状に伸びだしたままで残った状態です。したがって残った袋状の腹膜を根元で縛って袋を切除すればいいだけの簡単な手術です。
 ではどうして間違えたのか。一年目の私は5年上の先輩と手術していたので、当然責任は彼にあります。結論を言えば、この子「YM君」(2004年にあの文章を書いていた時は確実に記憶していたのですが、今はちょっと不安です)は、いつも排尿後、すぐにまた「おしっこに行く」という情報を術後母親から聞きました。つまり、この子の膀胱には「憩室」(膀胱の壁に一部ふくれた休憩室のようなでっぱりがある)があって、それを私が開けて気づかずに引っ張り出していたということでした。母親には先輩がそのことをありのままに伝えて「当分の間、膀胱が少し小さくなったので、何度もおしっこに行くと思うが、いずれ元に戻るから」と話してくれました。
 次に22歳の女性の腹痛、実際は糖尿病の消化器症状であったケースです。当時私は松戸に母とともに住んでいたと思います。常磐線の沿線で私の自宅からも近いところに我々の大学の先輩の経営する民間病院があって、大学の医局の医師が交代で当直をしていました。一人ぐらいは大学から常勤医が出ていたと思います。確か連休の中日に私が当直に行ったのだと思います。前日は私の二年上の先輩が当直し、私は中日の24時間の当直、その後は同じ先輩が再び当直だったと思います。私は夕方5時ぐらいから当直したと思います。前の日少々飲み過ぎて二日酔い気味でした。交代時、先輩が「アッペを入院させておいたから診ておいて」という「アッペ」は「急性虫垂炎」のことです。私は言われたように、大部屋のその女性のそばに行き、腹部を触診して「大したことはないな」と判断し、先輩が処方してくれていた抗生物質入りの点滴を続行として、当直室ですぐ寝入りました。翌朝早く目覚めて二日酔いも完全になくなり、スッキリと病室の彼女のところに行ったわけです。
 すると呼びかけにも反応がなく、身体全体が冷たい感じの状況でした。40年以上前のことですし、民間病院で検査体制が整っているわけもなく、あわてても院内にいる医者は私一人です。検査技師を呼び出したのかもしれませんが、とにかく血糖値を調べたのは正解でした。空腹時血糖値の許容値はせいぜい125mg/dl(これでも異常)までですから1000を超えているのはパニック値です。
 
 ここで、糖尿病について概説です。糖尿病には大雑把に言えば、Ⅰ型とⅡ型があります。通常の糖尿病はⅡ型で、遺伝的傾向があり、いわゆる生活習慣病です。ただし肝硬変や内分泌腫瘍などで二次的な糖尿病も起こります。一方Ⅰ型は若年者に多く、昔は先天性のイメージでしたが、実はウイルス感染などをきっかけにしてインスリン分泌が無くなる疾患です。一生インスリン投与を続ける必要があります。
 
 この若年女性は数日前に風邪をひいていたようで、そのウイルス疾患が引き金となって、一気にすい臓のベータ細胞が消滅して発症した糖尿病だったのです。相撲の横綱隆の里関がこれだったと記憶しています。そのことは回復してからお母さんに聞いたのですが、最初はそれどころではなく、私は輸液を生理食塩液に代えて、インスリンを40単位(これは今思うと多すぎます)も患者のそばにつきっきりで投与しました。実は最初に勤務していた東京厚生年金病院で親しかった先生、半分アルコール依存症の糖尿病医と一緒に糖尿病のある患者さんが手術するときにインスリンの微量持続注入という試みを日本で初めてやった経験がありました。だから外科医のくせにインスリンの使用にあまり抵抗がありませんでした。もちろんインスリンを多量に使えば「低血糖」が心配になります。高血糖の持続よりも低血糖のほうが危険は大です。だから私はつきっきりで患者さんのそばにいたわけです。そして経時的に血糖値を測定しながら、インスリン注入を続けました。救急患者などが来る病院ではなかったので、時間はたっぷりありました。
 患者さんは少しずつ意識がはっきりしてきて午後には反応も良好となりました。本人は小柄(通常よりかなり背がい低い)で小太りで、母親が心配して東京女子医大の内分泌内科に通院歴があり、本人・母親と相談して、女子医大に連絡しました。つまり「糖尿病昏睡になって今は回復したけれど、入院させてほしい」と告げたのです。そうしたら、彼らの得意の疾患だったのでスムースに転院が決まりました。そして救急車で転院していきました。母親からは「助けてもらってありがとうございました」とお礼を貰いました。何となくこそばゆかったのですが、まあ頑張ったからいいかと有難く頂きました。
 
 上記の二つのケースは最終的には「めでたしめでたし」でしたが、そればかりではありません。
 病理組織診断について言えば、当時は病理組織診断の専門医云々は問題になっていません。つまり、医師免許さえ持ってい
れば、外科医だろうと内科医だろうと病理診断医だろうと何でもできます。違法ではありません。今もそうです。ただ、今は分業化が進んで、「専門医」が出来て、逆に何でもみれる医師がいなくなりました。「総合診療医」や「救急医」の「専門家」が登場していて、それはそれとしていいことだと思います。
 私が医師になった1973年はちょうど50年前になります。内視鏡も食道・胃・十二指腸の上部については「胃カメラ」「胃ファイバースコープ」と二つの系列がありました。詳細は省きます。しかし大腸についてはまだ内視鏡検査は一般的ではありませんでした。超音波すなわちエコー検査はやっと始まったばかり、CT検査もありませんでした。その中で「誤診」は必発でした。虎ノ門病院の沖中重雄病院長(東大名誉教授)が、病理解剖で確認した「正診率」が50数パーセントというのが話題になっていました。(編集部註:50%を80%に訂正します。ペンギンドクターから訂正が入りました。)
 私が思い出す「誤診」のケースはいろいろあります。今なら不要な手術をしないですんだのに、と思うケースももちろんあります。何しろ心筋梗塞は起こったら、動かないで安静にするぐらいしか対応がなかったのですから。まもなく狭心症に対する冠動脈のバイパス手術がアメリカから日本に「輸入」されて見事な結果をもたらしたのですが。
 
 本日は前回の「医療安全」神話についての解説を中心にお話しました。50年間特に最初の35年間、医療の最前線において「奮闘」してきたものとして日本の医療の現場はよくわかっています。60歳で常勤をやめて良かったと思います。もし「院長」を続けていたら、65歳ぐらいで死んでいたかもしれません。なぜなら私は臆病で心配性ですから、いろいろなことが気になるのです。60歳の時に「寝不足」で三日間「三段脈」(二つ普通の脈があって三つめが心室性期外収縮を起こし、繰り返す)が続きました。それ自体は致命的ではありませんが、私は「そろそろ辞め時と判断した」理由です。
 きょうはこのへんで。