[1236]入管法改悪について

 

 与党、維新、国民民主党の賛成で入管法改悪案が衆院法務委員会を通過しました。事情があって日本に来ている外国人労働者を強制送還することに私は強い抵抗感をもつ。なぜか。

 1980年終わりから1990年代はじめ日本は労働力不足で、私の働く合板製造工場には数十人の外国人労働者が働いていました。ほとんどの人がいわゆる不法就労でした。

 イラン人は体が大きく力持ち。みんなムスリムで仕事の合間に礼拝時間が与えられていました。「イスラムのカミサマ、日本は遠いから見ていません」と明るく「自由」に戒律違反行為をする若者もいました。スリランカから内戦を逃れてきた人もいました。産油国で働きドイツでも働いて日本に来たスリランカ人は、ドイツ語と英語と日本語をまぜこぜにして話していました。愉快な人でした。中国系マレーシア人の母娘、中国人の若者も多くいました。

 天安門事件の時は休憩時間、終業後、工場の食堂のテレビの前は彼らの会話で大賑わいでした。

 当時ソ連邦ゴルバチョフペレストロイカによって瓦解に向かっていた頃です。ペレストロイカに幻想を抱いていたイラン人青年は、ゴルビー式改革のプラグマチズム的本質を熱く語る私の話に目を輝かして聞いていました。

 休憩時間は生起する世界の出来事をめぐって雑談が盛り上がりました。サダムフセインクウェート侵攻を批判する私はパキスタン人の青年をはじめ中東出身の若者から悪いのはアメリカだ、と猛烈な反批判を受けました。

 ペルーから来た若者と私は仕事をしました。私の助手としてそれはそれは一所懸命に働いていました。

 

 それがある日の朝、会社の敷地に到着した送迎バスの降車口で、100名以上の機動隊の検問を受けあっという間に警察のバスに連行されていきました。見かけが日本人に見えない人は全員連れていかれました。

 夜勤明けで工場内にいた外国人労働者は日本人従業員が機械の陰にかくまってやり難を逃れた人もいましたが、ほとんどの人は捕まってしまいました。無差別逮捕です。

 数十人が警察のバスに乗せられ、心配そうに見送る日本人従業員に手を振って別れを告げました。

 彼らは何も悪いことはしていません。会社もすべて承知の上で雇用し働かせていたのです。分業にもとづく協業の中で共同労働を通じて感じたことですが、みんな真面目でした。

 あの働く仲間たちは日本で働くこと自体が違法とされ身体を拘束されて入管施設に送られました。

 今思い出しても怒りが湧きます。私のこの体験は働く外国人労働者を拘束し強制送還することに許すことができない感情を湧きたたせるのです。

 第三者の審議会をつくるという問題ではありません。短絡的だという謗りを受けようとも働きたい労働者は無条件で受け入れるべきだと思います。企業が雇用を拒む場合には日本人労働者が外国人労働者スクラムを組んで闘う日が来ることを私は願います。