[1304](寄稿)医療あれこれ(その88)ー1

ペンギンドクターより

その1

 皆様、暑いですね。今日は太陽光発電の自前電力を消費して、朝から二階のエアコンを稼働させています。14時過ぎの時点で外気温35℃です。以前にも言いましたが、2011年10月以来10年間は我が家の発電1キロワット42円でしたが、今は8円ほどです。大いに昼間は自前の電力を使うべきです。町内の防犯パトロールは朝のうちにすませて、歩行数ノルマ4000歩もクリアーしました。
 
 さて、皆様は「ギンバイカ(銀梅花)」(フトモモ科ギンバイカ属)という樹木をご存知でしょうか。樹木図鑑によれば、「地中海地域原産の常緑低木で、高さ1~2mです。葉は舟形で長さ4cm前後。光沢があり、ユーカリ(フトモモ科ユーカリノキ属)に似た強い香りがします。花は白色でわずかに紅色が入り、今年枝の葉のわきに単生します。花期は5月です」とあります。
 私はこの樹木を、かつて公園散歩に8000歩以上歩いていて、民家の塀から紫色の果実をのぞかせている時に見つけました。2021年9月23日のことです。そして2022年6月9日にやっと花にお目にかかってものすごく嬉しかったことを覚えています。日付がわかるのは、スマホで撮影し、アプリ「花ノート」に保存しているからです。
 この樹木が、G病院の12階「緩和病棟」の窓の外にあるのだそうです。鉢植えだったのでしょう。2023年6月12日に女房とその友人たちが、親友の膵がんの患者さんのお見舞いにその緩和病棟を訪れた時に見つけて、花が可憐なのでみんなで撮影したようです。その樹木の名前がわからず、お見舞いから帰宅して私にその写真を見せてくれました。即座に樹木名を告げて、私はちょっと得意でした。外国産の樹木ですが、すでに東京辺りでは鉢植えで出回っているのかもしれません。なかなか葉も花も魅力的です。
 
 この樹木のことから始めましたが、実は、このお見舞いの後まもなく6月16日未明、女房たち8人のグループの要であったEさんは膵がんにて亡くなりました。74歳でした。2021年3月13日「膵がんの腹膜転移」の診断確定後、2年余りの闘病生活でした。診断確定時、「余命6ヶ月」と診断されたのですが、新薬等の効果もあり、十分な延命だったと思います。本人は73歳まで生きたいと言っていたようですが、一年を超えてついに二年も超えた、私には奇跡的と思われる抗がん剤の効果でした。
 以前もお話したと思いますが、繰り返します。彼女は新潟の高校で女房と同級生でした。お父さんが新潟大学の教授だったようですが、高校卒業後T病院の付属看護学校に入学し、ナースになってからは整形外科病棟に所属しました。その後抜擢されて文部省の大学病院課?に転勤し、以後Y大学病院、T病院、G病院の看護局長などを歴任し、退職後は日本看護協会の役員も務めたようです。私は一緒に仕事をしてはいませんが、40年余り前西ドイツに行くときも箱崎に見送りに来てくれました。時系列で彼女の膵がんの診断後の彼女を含めた7人(ひとり白血病で亡くなり減少)グループが集まった日時を示します。コロナ禍で集合が難しい時期でした。
 2021年3月13日膵がんの腹膜転移確定診断。
 同年4月1日東京の自宅へ見舞いに。その後G病院に入院し新薬等の抗がん剤治療開始。
 同年11月25日東京の自宅へ見舞いに。コロナ禍で病院見舞いは不可能だった。
 2022年4月16日東京の自宅へ見舞いに。
 同年6月28日新潟でみんなで集う。本人元気。
 同年10月14日新潟県O温泉へ温泉旅行。本人元気。
 2023年3月30日東京の自宅へ見舞いに。
 同年4月19日東京、スカイツリー「そらまちのレストラン」で会食。この時本人も含めた集合写真あり。
 同年5月23日、6月1日、6月12病院へ見舞いに
 同年6月16日未明、死去。 
 
 診断後、当初は抗がん剤の腹腔内と全身投与が行なわれ、「腫瘍マーカー」も正常化、髪の毛は抜けたものの、至って元気だったようです。その後徐々に腫瘍マーカーCEACA19-9でしょうか)が上昇し、骨への転移も出てきて腰痛が強く、放射線治療や腰椎骨折の手術治療も受けたようです。
 彼女の凄いのは、余命半年と言われたこともあるでしょうが、診断後、すぐに東京と新潟のマンションの相続を親族のそれぞれに渡すことを決めて、治療に入っていることです。さらにこのコロナ禍でありながら、山口県新潟県その他を往復し、会うべき人と会い、今後のこともすべて話していたことです。
 さらに我が家も含め友人・知人宛てに、死後の6月30日には彼女自身の名前で6月16日死亡通知の葉書が届きました。甥御さんに死後に投函するよう頼んでいたもののようです。「余命半年と言われたけれども、癌研病院他の人びとのお陰で2年余り延命できた」と経緯を記してありました。
 通夜・告別式は新潟で既にすみましたが、7月30日には、新潟のマンションにみんなが集まって遺骨に別れを告げて、父母のいるお墓に納骨するようです。
 8人(医療従事者はナースである本人と検査技師である女房の2人)のグループが膵がんのEさんと白血病のひとりの2人が亡くなったわけですが、健在の6人も1人が難病「視神経脊髄炎」にて闘病中とか、1人が胃癌にて13年前に幽門側胃切除、その残胃にまたガンが出来てこの5月胃全摘となったなど、73-74歳の同級生女性ばかりの割には、ちょっと重大疾患が多いのではないかと女房に話して、嫌な顔をされました。まあそういう年齢なのかもしれません。
 膵がんについては、10年生存率が5%ですが、この5%はむしろ生き残っているほうがもともと特殊なのではないかと疑うほどです。一般的には転移のある膵がんの余命が半年というのは当然です。彼女の場合、新薬の効果もあったでしょうが、本人の強い意志とさらには周囲の人々・友人たちとの強いつながりが、二年を超える寿命を獲得させた原因かもしれません。
 私自身が同じ立場に立った場合、彼女のように行動できたか疑問です。
 見事な闘いでした。
つづく