7日の日経新聞Opinion欄に「多死社会の弔い」というテーマで意見が載っています。お盆の季節には死者を弔うために法事が営まれます。私は特定の宗教を信仰しているわけではありませんが、この時期には亡くなった両親や親戚縁者の納まった仏壇・お墓に合掌します。また夭逝を余儀なくされた友人たち、先に逝った先輩や同輩、後輩も思い出すことがあり、お墓参りはしなくても何かしんみりと彼らを思い出すことがあります。
毎年150万人の人が死んでいるそうです。人間は自然の一部としていつかは生命活動を終えます。生き残ったものは死者を弔います。
日経新聞がいう「弔い」とは葬式などの形をとった弔いのことのようです。昔のように家族が生涯一緒に生活するということもなくなり、関係が希薄にもなり格差社会で葬儀にまつわる費用も出すのが難しくなっています。
だから当たり前のように行っていたお弔いの儀式もやらなくなってきています。日経新聞の記事に寄稿しているお坊さんが、無縁仏が増えたと言っています。
弔うとは、生きているもののなすことです。来世を信じ、死者の死後のために祈るというのは祈る人の心の問題なので私がとやかく言うことではありません。
私は、弔うというのは死を悼むことの中に弔う者が自分の生と死を考えることでもあると思います。
考えたくなくても考えるざるを得ないことです。自分が非存在になるということは避けられない以上、やはり生きている今なにを為すかということに行きつきます。
ところで自分が非存在になるとはどういうことか。意識をもつ私にとって生まれる前の受精卵時代の私は可能的な私としての意味をもっていました。その前は私は非存在だったというほかないでしょう。死とはそういう状態になるということです。生きている私は意識がある限り、そうなるまで自分の意識=価値観にもとづいて生命活動を続けます。