[1364](寄稿)医療あれこれ(その92)−4 随筆

ペンギンドクターより
その4
 さて、添付ファイルは、この間お話した「恩寵の時間シリーズ」のひとつです。K先生のことを書いた文章です。今私の手元にK先生の結構分厚い短歌集があります。今度の集いに持参する予定です。
 
恩寵の時間ーその8
 高校への通学は、自転車だった。学校が終わると、正面の道をまっすぐ下り、「三つ櫻」という酒造会社の倉庫のわきから、川沿いを帰ることが多かった。時々、その道でやはり殿町に帰るK先生と一緒になった。
 K先生は、独身の女性で、国語の担当だった。まだ明るい時間に一緒になったから、その頃は、定年退職し、嘱託で勤務していたのかもしれない。文芸部の顧問をしていた。多少痴呆気味のお母さんと二人で暮らしていた。
 私は、先生の歩みに合わせて、自転車をゆっくり走らせた。「自転車、上手ね。「まあね。」先生は、一枚の布を巻きつけたような、風変わりな服を着ていた。文芸部の顧問だったし、田舎には珍しいちょっと「すすんだ先生」だった。私は一年上の女子学生に憧れて入部したバレーボール部に加えて、文芸部にも所属していた。時に、短い習作を文芸部誌に載せた。
 今、川はコンクリートで固められ、周りはやはりコンクリートの白い家と白い道路が交差しているところだが、その頃は田んぼや畑、茶色の石州瓦の農家が点在していた。道路は、砂利道で、時々自転車のハンドルが取られた。ゆっくり進むには、確かに多少の技術がいった。川の水量は、上流にダムが出来て以来、多くなかった。それでも、鮎を投網でとる人がいた。
 「あなたの猫の死体のことを書いた文章、なかなか良かった。梶井基次郎をちょっと思い出させた。」
 私は、何も応えず、少し自転車を進めた。しばらくして、先生の歩みにもどした。やがて、川沿いの道は、橋の所で終わった。川から離れて両側を商店などに挟まれた通りになると、人通りもあった。私は「じゃあ、また。」と先生と別れた。
 大学2年の冬だったろうか?同級生の何人かと、もう高校を辞められた先生の自宅を訪ねた。本棚のある部屋で、食事しながらいろいろ話した。私だけ第二中学の出身で、他の連中は、第一中学の出身だった。彼らは、いつも、一緒に行動することが多かった。明るく、元気な連中だった。ちょっと「すすんだ」サロンで楽しそうだった。
 先生に「Sさんは、今どんな本読んでる?」と聞かれて、「三島由紀夫。」と応えたら、「あれは、ダメ。井伏鱒二がいい」。壁の本棚には、確かに井伏の全集があった。
 その後、私は、「三島が右翼になったから、私は左翼になる」などと自分に言い聞かせて学生運動に関わっていった。
 その後、いつの頃だったか、先生の母上も施設に入られたと聞いた。そして、誰からだったか、私のもとに、「あなたの恩師のK先生が亡くなられた」という連絡が届いた。その時、「恩師」という言葉に違和感を覚えた。しかし、いま、なぜかしら、K先生を、高校時代の先生の中で一番懐かしく、思い出している。