[129]終戦記念日に思う

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 早朝、コンビニエンスストアに新聞を買いにいった。品出しをしていた店員の姿をみて私はマスクをしていない自分に気づきました。何か言われたわけではないが、私は何か悪いことをしているような感覚が湧いてきました。マスクを着けることは「国民の義務」のようになった。雑踏をマスクなしで歩くと刺すような視線を感じることがある。レストランの入り口にはマスクをしていない人は入店しないでくださいと書いた貼り紙がある。
 いまどこにいっても皆マスクをしている。私はマスクが新型コロナ感染防止のためにいかほどの効果があるのか正確には知らない。しかし、気持ちの上ではおおいに効果がある。最大の効果はマスクをしていれば人にいやがられないという安心感を持つことができるということである。

 8月5日の朝日新聞 に批評家の東浩紀さんのインタビューがのっていました。
 質問者が問題提起しています。
 ーーコロナ危機の中で今回、イタリアの哲学者アガンベンは、生き延びること以外の価値を持たない社会になってしまっていいのかと問いかけています。欧州を中心に、反発を含めた大きな議論を呼びました。
 この問いかけにたいして東さんは「アガンベンの指摘は妥当だと思います。主張の眼目は『ウイルス危機を口実にして権力の行使が強化されていることを警戒すべきだ』というものでした。」と答えています。
 小生、ここまでで読んで、これは面白いと思いました。私も東さんが言う通りだと思うからです。「自粛」、「新しい生活」、「ソーシャルディスタンス」、「マスク」・・・など標語が私たちの行動を規制しています。標語をはずれる行為はご法度です。
 
 今日は8月16日。読売新聞朝刊は「戦禍 次代へ語り継ぐ」という見出しで政府主催の15日の戦没者追悼式を報じています。が、「戦禍」は国民の戦争協力によってもたらされたということに読売はふれません。
「欲しがりません勝つまでは」「撃ちてし止まむ」という標語ポスターが街角に貼られ、民衆は心をひとつにしてあの戦争に協力することを強いられていったのです。権力者は民衆を規制されることに馴れさせるばかりか、標語をつくり自主規制させることによって支配をスムーズに行なったのです。戦争に反対する人は非国民というレッテルを貼られ、治安維持法容疑で逮捕され獄中で拷問され転向を迫られました。政党は大政翼賛会に改編され、労働運動は産業報告会へと解体的に再編されました。こうして当時の政府は国家総動員体制をつくったのです。
 戦争への道は排外主義をうけいれる民衆の心の協力によってはじめて開かれるのです。
 
 米中が一触即発の状態になっている中で、いま政府は「敵基地攻撃能力の保有」をうちだし12月に防衛戦略として確定しようとしています。だから私は、いま政府が国家的危機を煽り「国防意識」を高めていこうとしていることにたいしては敏感にならなければならないと思います。
 私はメディアが流す標語と、標語を守らない人を排除する私たちの心の動きに注意し、冷静に自分をみる自分をつくることが大切だと思います。

 コロナの問題にもどります。私たちは感染しないために注意することは必要ですが、「コロナ」とか「マスク」とかという言葉にふりまわされてはいけないと思います。
 
朝日新聞の質問者は続けます。
ーー国民の生命を政府が守ろうとするのは当然ではないでしょうか。
 東さんは言います。「アガンベンは人々の意識が『むき出しの生』だけに向けられている状況を批判しました。僕の理解では、むき出しの生とは個体の生のこと、自分一人の生命のことです。誰もが自らの『個体の生』に関心を集中させてしまった状態は、哲学で『生権力』と呼ばれる権力を招き入れます。生権力とは、人々の『生』に介入することで集団を効率的に管理・統治する権力のことです。」

 なるほど、アガンベンの問題提起も東さんの説明も納得できるところがあります。
 確かに「生権力」という言葉を使うといま起きていることを説明しやすいと思います。ですが、私はこういう言葉をつくり、使うと誰がいつなんのためにどのように労働者民衆を管理・統治するのかという分析が抜け落ちてしまうのではないかと考えます。
 東さんのインタビューの続きについては別の原稿で書きます。